投稿者 スレッド: 時代祭と丹波弓箭組  (参照数 1160 回)

admin

  • Administrator
  • Hero Member
  • *****
  • 投稿: 59139
    • プロフィールを見る
時代祭と丹波弓箭組
« 投稿日:: 3月 11, 2013, 03:01:15 pm »
時代祭 丹波弓箭組 | 綾部の文化財日誌
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/1495.html
近世丹波馬路村における 「両苗郷士」 の存在形態離
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/05512.pdf
 
丹波国南桑田郡馬路村両苗文書 第三研究歴史班
http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00007026&elmid=Body&lfname=036000040009.pdf

京都の時代祭(京都三大祭の一つ、約2千人の行列)先頭を行くのは山国隊(京北町→右京区)。最後尾を行くのは丹波弓箭組(南桑田弓箭組、船井弓箭組)である。

「我がまち馬路」(平成23年 馬路町自治会発行)より
 檄を飛ばし、丹波弓箭連中を糾合したのは馬路村の郷士であった。江戸時代の馬路村の領主は、旗本・8千石の杉浦氏で、領地は関東と丹波10ケ村6千石に分かれていた。江戸と京都に屋敷を持ち、馬路村に代官所を設けて丹波一円の村々を支配した。 村高1520石9斗3升の大きな村であった。江戸中期においては平均して人口1200人余、棟数は300軒前後で推移していた。「土地所有者である高持ち百姓」に対して2倍の「水飲百姓(小作人)」がいた。嘉永6年(1852年)6月、ペリーの率いる黒船があらわれ、幕府は海防を強化し、江戸湾周辺防備の持ち場を各藩や旗本に割り当てた。馬路村や池尻村からも多くの人たちが江戸へ出発していった。馬路は朝廷にとって大切な「制外」の地と論じ、勤皇を主張する人たちも生まれていった。しかし、領主の杉浦氏を無視した行動は許されず、何人かが捕縛されて、厳しい取り調べの中で、2名が亡くなっている。
« 最終編集: 3月 11, 2013, 03:06:32 pm by admin »