投稿者 スレッド: 大田垣蓮月  (参照数 248 回)

admin

  • Administrator
  • Hero Member
  • *****
  • 投稿: 58882
    • プロフィールを見る
大田垣蓮月
« 投稿日:: 2月 06, 2018, 03:17:05 pm »
大田垣蓮月 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%9E%A3%E8%93%AE%E6%9C%88

SI016 丹波国亀山藩京屋敷跡
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/si016.html


「大田垣蓮月」

鳥羽伏見の戦いの後、東征の為先鋒を承って京都を発する官軍の島津公の行列が三条大橋にさしかかった時、一人の老尼が進み出て一葉の短冊を捧げた。近くにあった西郷隆盛が対応すると、老尼は「蓮月」と名乗り、隆盛に短冊を差し出した。受け取った隆盛がその短冊に目をやると「あだみかた 勝つも負くるも あわれなり 同じ御国の 人と思へば(蓮月庵掲示の奉納額より)」(成瀬慶子著『大田垣蓮月』では「うつ人も うたるる人も 心せよ おなじ御国の 御民ならずや」) という歌が記されていたという。
 この歌に心打たれた隆盛は、よくよく熟慮し武力による江戸攻略の考えを改め、すなわち大田垣蓮月が捧げた歌が、後の江戸無血開城の道を開いたという。
 真偽の程はさておき、当時の人々が大田垣蓮月という人に抱いていた印象を伺わせる逸話だ。

 鳥羽伏見の戦いの後、東征の為先鋒を承って京都を発する官軍の島津公の行列が三条大橋にさしかかった時、一人の老尼が進み出て一葉の短冊を捧げた。近くにあった西郷隆盛が対応すると、老尼は「蓮月」と名乗り、隆盛に短冊を差し出した。受け取った隆盛がその短冊に目をやると「あだみかた 勝つも負くるも あわれなり 同じ御国の 人と思へば(蓮月庵掲示の奉納額より)」(成瀬慶子著『大田垣蓮月』では「うつ人も うたるる人も 心せよ おなじ御国の 御民ならずや」) という歌が記されていたという。
 この歌に心打たれた隆盛は、よくよく熟慮し武力による江戸攻略の考えを改め、すなわち大田垣蓮月が捧げた歌が、後の江戸無血開城の道を開いたという。
 真偽の程はさておき、当時の人々が大田垣蓮月という人に抱いていた印象を伺わせる逸話だ。

 蓮月は寛政3年(1791)正月8日、京都の三本木に生まれた。名を誠(のぶ)と名付けられた。
 実父は伊賀上野城主、藤堂金七郎とされているが、杉本秀太郎氏の著書『大田垣蓮月』によれば、伊賀上野城代家老職、藤堂新七郎良聖であるとしている。
 生母は三本木の芸者であったとされるが、同じように杉本秀太郎氏は生母が後に亀岡藩士へ嫁いだといわれることから町方の女性ではなかったかと推測している。
 推測されるのは、公務で上洛した良聖と町方の女性との間に生まれたのが誠、後の蓮月であったということだ。
 だが、生まれた誠は生後10日余りで大田垣伴左衛門光古の養女とされてしまう。『誠』という名に託された実両親の想いはどのようなものであったか――蓮月の波乱の人生はこうして始まった。
 後年の誠の光古へ対する態度から推し量ると、養父となった光古は、非常に愛情を持って誠を育てたようだ。
 誠が8歳となった頃、実父と推測される良聖が32歳の若さで病没している。なお、良聖は生前に「誠に会いたい」との使いがあったとの逸話が残り、その際に誠は会わないと拒否したという。
 実父の死が切っ掛けとなったのか、この頃から誠は実母が嫁いだという亀岡藩へ御殿奉公に入り、17、8の頃まで勤めあげることになる。この期間に誠は詠歌、舞踊、裁縫などを身に付け、更には長刀、剣術、槍術、鎖鎌などを武技を習得し、特に長刀は免許を受領する腕であったという。
 養家に戻った誠は、病没で一子を失っていた光古が養子とした望古と結婚する。2人の間には3人の子に恵まれるが、3人とも幼くして病没してしまう。更に夫の望古は素行に問題があり、遂には2人は離縁し、望古はその後すぐに病没してしまう。
 離縁から4年後、誠は光古の新たな養子となった古肥と2度目の結婚をする。2人の子をもうけ仲の良い夫婦であったようだが、結婚から4年後に古肥は病没し、更に続けて2人の子も病没してしまった。
 古肥の死を切っ掛けに、誠は剃髪(襟元で髪をそろえて切る「薙下げ」に留めたとのこと)し蓮月と名乗るようになった。時に蓮月33歳。
 剃髪後、蓮月は同じく剃髪した養父の光古改め、西心と共に、西心が住持を任じられた知恩院山内の真葛庵に移り住むも、それから9年後の蓮月42歳の時に西心も没し、ついに蓮月は天涯孤独の身となってしまう。
 西心を失い傷心の蓮月は、その墓近くに小屋を建てて墓守として余生を送りたいと願ったが、山奥の女一人住まいは危険だと周囲に諭されやむを得なく断念したという。

 人の人生を前後半に分けるとするならば、蓮月の後半の人生はまさにここから始まる。
 真葛庵を出た蓮月は、岡崎へと移住し、そこで生活の糧の為に埴細工(陶器)を始めた。土を捏ね、ろくろを回し制作する蓮月の急須、徳利、皿、鉢、杯、茶碗、花瓶などは、姿も味のあるものならば、表面に釘で彫り付けた自作の句が作品の趣を特徴付けていた。蓮月の埴細工はやがて評判となり、京土産として人気を得て注文に制作が追いつかなくなるほどであったという。
 次第に蓮月の名は世間に知られるようになり、蓮月の元を興味本位で訪れる者が多くなると、これらの訪問者から逃れるように蓮月は引っ越しを繰り返すようになったという。世に「屋越し蓮月」と称されるのはこの頃からのことで、引っ越しの度に小屋の手入れを依頼されていた大工の妻は34回まで覚えていたそうだが、その後はもうわからなくなってしまったという。多い時には、年に13回も引っ越しをしたという。
 慶応元年(1865)、蓮月75歳にして、ようやく安住の地に辿り着く。それが西賀茂にあった神光院内の茶所であった。蓮月は元からあった茶所に三畳一間の小屋をくっつけるように建て増しし住んでいたという。明治8年(1875)85歳で逝去するまで、蓮月はこの茶所で埴細工を制作し続けた。

 蓮月の後半生を象徴するのは埴細工に他ならない。
 その埴細工を切っ掛けに蓮月が得たのは、名声と富だった。
 名声は人を呼ぶ。数多くの文化人が蓮月と交流し、芸術の華を開くこともあれば、武士階級の訪問を受けることもあったようだ。巷説では蓮月は勤王の志士との交わりがあり、幕史から逃れる為に引っ越しを繰り返していたともいわれ、また時には毒を盛られたという逸話もある。冒頭で紹介した西郷隆盛に短冊を託すという逸話も、そんな巷説から生まれたものかもしれない。
 そして得た富は、蓮月は惜しげもなく布施に当てた。飢饉が発生すれば当時蓮月の身の回りの手伝いをしていた猷輔少年、後の富岡鉄斎に30両を託し奉行所へ届けさせ、また別の折には自腹で粥布施を行った。そして蓮月最大の事業は、鴨川丸太町に独力で橋に架けたことだろう。それまで丸太町にあった橋といえば、板を渡すだけの増水すればすぐに流されてしまうといった代物でしかなかったそうだが、蓮月が架けた橋は荷車も通すことができる立派なものであったという。

 大田垣蓮月という人を表す象徴的な一言を、蓮月と関係が深かった富岡鉄斎が語っている。
 蓮月はとても美人であったという。だから言い寄る男が多く、夫を亡くし髪を薙下げにし尼になってからもそれは変わらなかったという。そこで蓮月は千斤秤に歯を縛り付けて自ら抜き、容貌を醜くし言い寄る男達を黙らせたという。人はその姿に『烈婦蓮月』という印象を覚えたという。
 実はこの話はおおよそ作り話のようであるが、巷説として当時広く伝わっていたらしい。そこである人が蓮月に親しい富岡鉄斎に真実かどうか尋ねたところ、鉄斎は「蓮月は、それぐらいのことならする人だった」と答えたそうだ。

 蓮月は、その人生の中で多くの悲しみを味わってきた。そこから生まれた虚無感が、蓮月に悟りにも似た達観を与えただろうことは想像できる。
 だが、蓮月はそれだけの人ではない。人によっては虚無感に世の色彩を失ってしまう人もいるだろうが、きっと蓮月には虚無感を覚えてもなお、世が色彩を帯びた鮮やかな美しい姿として映っていたのではないだろうか。
 自然を愛し、人を愛し――そこに生来の性根の強さが合わさって。
 蓮月という人は、趣のある色彩を帯びた世界を生きていたのだろう。
 だからこそ、蓮月が生み出す詩句や、その詩句を刻んだ埴細工は、独特な趣によって人々の心を捉えたのではないだろうか。

 そして蓮月とは、愛すべき人であり、実際に多くの人々に愛された人であった。
 蓮月の死後、遺体は生前より自身で用意していた――普段は米櫃に使っていた――棺桶に納められ、墓地へと運ばれた。その後を、蓮月を慕う村中の人々が皆泣きながら従ったという。
 また富岡鉄斎は蓮月の死を「目出度終焉(めでたくしゅうえん)」とし、その一生を讃えている。

 『宿かさぬ 人のつらさを 情にて 朧月夜のはなの下ぶし』

 蓮月の墓は、小谷墓地の桜の木の下に、今もひっそりと佇んでいる。


国立国会図書館デジタルコレクション - 二女和歌集
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992742
国立国会図書館デジタルコレクション - 日本名婦伝
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177632
« 最終編集: 2月 06, 2018, 05:42:33 pm by admin »