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室町記
« 投稿日:: 9月 25, 2016, 10:29:05 pm »
書名:室町記
著者:山崎 正和
発行所:朝日新聞社
発行年月日:1976/5/20
ページ:252頁
定価:971円+税

日本の歴史の中でも乱れに乱れた室町時代、二百年の中で幕府の支配もあやふや、権威、実力なき時代不安点きわまる時代、川が死体で埋もれるほどの戦乱期だったが、一方、世界に誇れる芸術、日本人の原点が多く生まれた時代。「豊かな乱世」そんな室町時代にスポットをあてて著者が独自の視点で室町時代の面白さを述べている本です。40年ほど前の本ですが、新鮮さは今も色あせていない。

足利政権は初代尊氏の頃から全国を統一支配しているという感じではなく、後醍醐天皇の南朝、北朝の混乱、守護大名山名、細川を頂点とした応仁の乱。しかし天皇家、将軍家、守護、地頭の枠組みはそのままに内輪もめの感あり。決して誰かに取って変わって日本全体を支配しようというエネルギーは働かなかった。

そして武力、軍事力が強いだけは支配できない。経済力だけでもダメ、生け花、茶の湯、連歌、水墨画、能・狂言、作庭など今日の日本文化の核をなす偉大な趣味を持ったものも尊重される時代。公家、武家、町人、百姓、僧など様々な人々が、自由に生きた時代でもある。

そして生け花、茶の湯、連歌、水墨画、能・狂言、作庭などの芸術は実は大切なコミュニケーションツールとして機能している。西洋的な芸術の目指すところは一人孤独で神の領域に近づく、したがって自分以外評価してくれなくても周りが判らないだけと嘯いているところがある。しかし日本の芸術は作者と鑑賞者の間には暗黙の了解事項が成立しないと評価されない。

能にしても泣く所作、笑う所作、怒る所作など定型があって、それが嫌みにならないように「秘すれば花」。それを満たすためにはその所作が当たり前に見えるようなところまで練習を繰り返す。そんなことが強調されている。高い境地に達した作者を評価できる鑑賞者が存在した。相互に高め合った芸術。それは目指すところが自分以外の人にも判って貰える境地。コミュニケーションを大切にした。したがって連歌などもその場の雰囲気にあった歌を詠む能力がある人が評価された。「おもてなし」の原形となっている。

豊臣秀吉に対する利休、徳川家康に対する古田織部、どちらも茶人ですが、武力経済力権威などを持っていた秀吉、家康からもっとも畏れられていた。そしてただ茶人であるけれど他の実力者達に対する影響力が絶大だった。ただ力があって武力で圧倒するだけでは人は付いてこなかった。そんな日本独自の政治形態もこの室町時代に作られた。

源頼朝は東国の一地方鎌倉に幕府を置いて関東支店長の位置において武家の棟梁として君臨する道を選んだ。
足利尊氏は決断力もなく、なよなよしたところがある武将だったが、都京都に幕府を置いたことで武家以外の人々の活躍する場を作った。地方から見た京都は乱れに乱れていてもやっぱり都、京都発の文化、情報を求めた。大内氏、朝倉氏、後北条氏など小京都、豆京都の町作りをおこなっている。

また、この時代も天皇家は後醍醐天皇のような自己主張もせずに公家、幕府、守護大名たちの関係を微妙に調整しながら生き残っている。それぞれの立ち位置を犯さないという力学が働いているように思う。これは何故だろう!
なかなか面白い本です。

本書より
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尊氏
およそ熱狂とは縁のない穏健な常識人は終生天皇の権威、自分の野望を恐れた

後醍醐
珍しく政治的・意志的な力の帝王であったが、その観念的理想主義は短命に終わった(日本人は伝統的に権力と権威の分離を求めた)

副将 直義(尊氏)脇屋義助(新田義貞)小太郎長重(名和長年)大塔宮(後醍醐)
過激な決断を躊躇う主将に対し味方を攻撃的・積極的方向に導くが非業の最期を遂げる事が多い

新田義貞
引き立て役、勾当内侍との恋物語

児島高徳 
情報戦の先駆者

楠木正成
奇抜な“計略”、勇敢な敗者に庶民は“判官びいき”

北畠親房
醒めたイデオローグ、人材が乏しくなった南朝側陣営で唯一の教養人

高師直
徹底したリアリストの壁

ばさら・佐々木道誉
経済力だけでは無く演出家の才能と美術鑑定感覚、美的な示威が政治的な力として働く事を見抜く知恵

肥後の菊池一族
南朝征西将軍・懐良親王を旗印に筑前・小弐、豊後・大友と対立

義満
最初の政党政治家、守護どうしの対立を逆用する権謀術数をふるい新興商人の金力から大陸との外交関係まであらゆるものを使って生き延びた天下に支配権は及ばず、大内義弘・今川了俊などの豪族を恐れた京都をあたかも独立国として支配すべく、自分を守る新しい術策と権威を創造すべく自らを文化の創造者である事を証明して見せねばならなかった(北山文化のパトロン)
自らの保身のためにも朝廷の権威を強化すべく、南北朝を統一を呼び掛け(南朝・後亀山、北朝・後小松)将軍職を義持に譲り、公家の頂点・太政大臣へ

義政
政治的実権を日野富子に譲り、 “同朋衆”を集め文化の一大センターを主宰、文化的権威の中心たろうとした小京都・豆京都の建設 大内(山口)一条(土佐・中村)朝倉孝景(越前・一乗谷)日本の地方文化は土着ではなく、都会への憧憬・模倣として育った“国人”の独立政権を目指した“山城国一揆”も中央志向から内部崩壊した

土一揆と徳政令  
社会を動か勢力が多元化したため、“近代化の歪み”をただす紛争が多発したが、体制を揺るがす物ではなく、首謀者は罰するが要求の半ばを受け容れる解決法が日本の伝統になった農民が結集した浄土真宗、町衆(土倉や酒屋等の大富豪)が信仰した法華(現世利益、厳格主義)戦国時代の天下構想  北条早雲(関東志向型)毛利元就(血縁割拠主義)信秀・信長父子(京都志向型)二流の野心  三好長慶、松永久秀(義輝を殺害、義栄を擁立)

義昭、本願寺顕如  
信長と権力を争った二人の権威者

観阿弥・世阿弥  
猿楽を都会的感覚で変革、義満の文化的自己主張を満足させた

兼好法師  
最初のジャーナリスト、“遁世者”の教養

連歌師・宗祇  
遁世が世間を自由に泳ぎ回る手段となり、学問や芸能が社会的階層を越える裏梯子に連歌に“要求されるのは一座の気分の流れを正確に掴む能力であり、それに生き生きとしかも控えめに自分を併せていく能力“だ

蓮如
流動の時代の組織者、彼が考案した“講”と言うクラブ組織、信者に自己表現の欲望と世話役としての社会的地位の欲望を満たさせ信仰は個人の意志というより集団の雰囲気となり、仏への帰依は微妙に仲間どうしの帰属感と混ざり合った

一休
反常識、奇抜な機知、自由な宗教家として後小松の落胤として民衆の“貴種”への憧れ、“判官びいき”を一身に集める

一条兼良 義政と富子の教養の師
学才と高位に恵まれたが経済的には不遇、しかし公卿的教養に不屈の自信
三条西実隆
日記に記録された面倒な交際や贈答の繰り返しは疲れを知らぬ“人間好き”を思わせる

雪舟
京のサロンを避け、山口・大内氏に身をよせる。明への留学で名声を得たが晩年まで放浪の旅へ、多様な顧客の多様な趣味に応えた自由な職業画家

狩野永徳 
中国の水墨画技法に大和絵の優雅な色彩を加え、絢爛豪華な金碧障壁画を完成