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歴史散歩保土ケ谷宿歩き
« 投稿日:: 7月 03, 2015, 07:25:19 pm »
歴史散歩保土ケ谷宿歩き

先日、横浜古文書を読む会主催のぶらり東海道Ⅱ 保土ケ谷宿歩きに参加して来
ました。横浜に長い間住んでいましたが、保土ケ谷宿は初めてです。殆どが実物
はなく跡を辿る散策でしたが、保土ケ谷宿の歴史など詳しい説明でなかなか楽し
い一日でした。本陣の苅部家、名主の岡野家の歴史など興味あるお話でした。今
では考えられないことですが、帷子川天王町駅の直ぐ近くに海が迫っていたとの
こと。また松原商店街を抜けて江戸方面にある追分(東海道と八王子街道絹の
道)から浅間神社を経由して横浜駅まで20分ほどの距離でした。この道も海沿い
の狭いところだったのでしょう。安藤広重の東海道五十三次(保土ケ谷)は帷子
川河口(天王町駅)から見た絵だとか。

歴史散歩保土ケ谷宿歩き - 風に吹かれて隠れ里
http://princeyokoham.sakura.ne.jp/cpg/thumbnails.php?album=115
保土ケ谷宿歩き on PhotoPeach - Fresh slideshows to go!
http://photopeach.com/album/13kcaet


(メモ)横浜古文書を読む会の資料より抜粋
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コース
保土ヶ谷駅(旧東海道)-問屋場跡ー助郷会所跡ー高札場跡ー金沢横丁ー苅部本
陣ー脇本陣(藤屋跡)ー旅籠(本金子屋)ー上方見附跡(復元松並木・一里
塚)ー外川神社ー茶屋本陣跡ー大仙寺・苅部家墓ー(旧鎌倉道)ー遍照寺・岡野
家墓地ー中の橋跡ー古東海道標ー(古東海道)ー神戸神明神社ー横浜ビジネス
パークー旧古町橋ー天王町駅前(旧帷子橋跡モニュメント)ー天王町駅(帷子橋
河岸跡)ー(旧東海道)ー帷子橋ー橘樹神社ー松原商店街ー江戸方見附跡ー追分

保土ケ谷宿
江戸日本橋から4番目の宿場。距離8里9丁(約33km)当時の成人男子のあしでは
泊まりに早いが(普通は戸塚宿で泊まり)老幼婦女子にとっては手頃な距離であ
り、大名の泊まりも少なくなかった。
帷子川河口には湊があった他、鎌倉道・八王子道などが通り、交通の要衝だった
ので金沢八景・鎌倉等行楽地への道として、あるいは幕末の異国船出没時、浦賀
方面との往復に大いに利用された。
宿場としては本陣1、脇本陣3、茶屋本陣1、旅籠屋69(天保14年)があり中
の上クラスの規模だった。保土ケ谷、帷子、神戸、岩間の4町からなる。

保土ケ谷宿の形成
慶長6年(1601年)家康が東海道に宿駅制を定め、保土ケ谷も宿に指定された
時、町並みは西方の元町橋付近(保土ケ谷3丁目)の保土ケ谷町と東方の帷子川
河口(天王駅付近)の帷子町とに18丁(約2km)離れた二つの核から成ってい
た。その間の道筋も旧東海道より、やや西北(山側)寄りを通っていた。・・・
古東海道
慶安元年(1648年)幕府の指示により、交通の便のため、街道道筋を改め、直線
化を図ると共に、保土ケ谷・帷子両核を寄せて、宿の一体化を図った。この結
果、宿内街道は旧帷子橋(天王町駅前公園)から苅部本陣(保土ケ谷1丁目)ま
での直線道路、そこからほぼ直角に曲がって、権太坂下の元町橋までの直線道路
(1号線)となった。
町並みは保土ケ谷町が江戸方に移動し、苅部本陣は現在の位置へ移り、問屋場、
脇本陣もその前後に置かれた。一方帷子町、神戸町からも、上方方向の新街道筋
に移転し、一体の体制になった。さらに万治3年(1660年)南東の岩間村の住民
を移して、町並みの整備し、4町体制が確立された。

苅部本陣(苅部家→軽部家)
建物は災害等により旧状と異なるが、広大な敷地と文書を残している。尚、明治
になって軽部姓に改めた。苅部家の祖先は小田原北条氏の有力家臣苅部豊前守康
則。小田原落城時、康則の曽孫にあたる初代清兵衛は次男であったので、旧領保
土ケ谷に戻って土着した。徳川幕府に認められ、名主・問屋・本陣を命じられ
た。代々宿の繁栄に尽力し、明治になると十代清兵衛が横浜町初代総年寄に就任
した。大仙寺が菩提寺。

岡野家
中の橋四つ辻の東北角に鍋屋岡野勘四郞家があった。岡野家は町役人を勤める名
家であるが、裕福で、帷子川々口の岡野新田を開発したことでも知られている。
また保土ケ谷小学校の元の敷地や県立平沼高校の敷地を提供するなど地元のため
に尽力している。遍照寺が菩提寺。