書名:都市ヨコハマ物語
著者:田村 明
発行所:時事通信社
発行年月日:1989/6/10
ページ:351頁
定価:2136円+税
横浜の歴史はたった150年ほど、それまでは寒村で101軒の農家、漁師が住んでいたところ、諸外国の開港圧力に江戸幕府はこの村を防波堤としようとしてペリーを上陸させた。ここで日米和親条約の締結、そしてハリスとの間で日米修好通商条約の締結。このとき開港する場所は神奈川他4つの港となった。当時神奈川は東海道の重要な拠点、その対岸にある横浜(横浜は出島のような地形)に港を開いて江戸とは一線を引くことにした。
101軒あった人々は元村(元町)に強制移転(今子孫が残っているのは石川家の1軒のみとか)させ、現在の関内地区に外国人居住区と日本人居住区をつくって吉田橋に関門(関所)を置いた。その内が関内と呼ばれる。したがって横浜は日本人も、外国人もよそ者ばかり、アメリカ西部の開拓時代のように一攫千金を狙った多種多様な人々がやって来た。そこで成功した者、破産して逃げ出した者など混在した中でまちづくりが進められた。そして文明開化の嵐の中をいち早く取り入れて、横浜独自の文化が作られていく。そんな横浜の歴史を時間軸を追って綴っている。手軽に横浜の歴史、近代日本の歴史を概観できる書です。
掃部山公園には横浜開港に貢献したと井伊直弼の記念碑が井伊家(彦根藩)によって建てられているが、井伊直弼は開国にも反対、日米修好通商条約にも反対だった。そんな中一番働いた人は岩瀬忠震。この人も歴史の影に隠れて見えてこない。でも横浜開港の一番の功労者とすれば、岩瀬忠震と著者はいう。横浜駅の数奇な運命、最初の横浜駅は桜木町にあった。横浜-新橋間に汽車が走った時の駅、その後東海道(国府津)が開通したときは桜木町からスイッチバック(機関車を入れ替え)して東海道を走っていた。その後高島町に、そして現在の横浜駅。桜木町、関内は東海道からは離れた場所に隔離されるように街が発達していた。当時は現高島町駅、横浜駅は海の中だった。高島嘉右衛門が横浜港を埋め立てて線路を作った。高島町、高島台などの名で残っている。
後年、東海道新幹線が作られたとき、やっぱり横浜は無視されて、政治駅岐阜羽島以下の寂れたところに新横浜駅が出来てしまった。この当時横浜市は何の働きかけもしていない。その後新横浜駅周辺を以下に開発造成させないようにするか苦労したとのこと。建築許可は法的に問題なければ許可せざるを得ない。ところが乱開発されてしまうと後で公共用地を確保することは至難の業。開発をしないで空き地のままで長期保存することが出来ない。そんな制度になっている。
関東大震災で壊滅的な被害を受けて94%の建物が崩壊してしまった。したがってここで横浜はまた一からの出発をしている。グランドホテルも破壊された。国際都市横浜としてはホテルが必要ということで原山渓など市内の有力者が資金を出して、ホテルを建て、ホテル名を公募して決まったのがニューグランドホテルだった。震災の瓦礫を海岸縁に埋め立てたその後を港湾公園として「山下公園」として残ったが、この時代、桟橋、港湾として船の着岸できる場所として使うのが当たり前、日本の何処を探しても港湾公園など考えられない。
しかしこの山下公園を残すことに奔走したマーシャル・マーチンと云う人がいた。関内の外国人居住地域は永代使用権が認められていた。しかし大震災で壊滅的打撃を受けて本国に帰国した人、神戸に逃げた人の間を回って説得してきたのがマーシャル・マーチン。この人のお陰で、関内の外国人居住地の権利がなくなったことで後で横浜の発展のためにはずいぶん寄与している、
第二次世界大戦後、連合国と降伏文書を調印したところも横浜港、マッカーサーが進駐して最初に司令部をおいたのも横浜。「何としても東京に上陸させるな」がここでも発揮されたのか?そんな運命的な街横浜。そして進駐軍に接収されて12年、主要な建物、地域は進駐軍に、関内は昭和32年に返還された。根岸競馬場は昭和44年、本牧は昭和51年に返還、沖縄は基地の街が常識となっているが、横浜も実は本土では一番多く、長く基地の街として接収されていた場所。
したがって高度成長期の始まった頃には横浜の一番の中心地であった関内周辺は日本人が近づけない街、しかたなく寂れた横浜駅周辺に中心地が移って来た。それも待ったなしの勢いで、横浜駅の表玄関は東口だったらしい。(この本ではじめて知った)西口は相鉄線の砂利置き場(相鉄線は相模川の砂利を運ぶための電車として設立された)などを整理して駅前広場、高島屋の進出。東口の開発は少し遅れて、関内、桜木町は首都高を地下、半地下で横浜市の提案も受け入れられたが、横浜駅東口はいきなり高速道路の高架が見える景観、みなと横浜は?思わず思ってしまう。東京の日本橋と同じ手法ですね。
何度も何度も一からの再出発をして来た横浜、これからはこんなことはない方が良いですね。でも例えそんなことがあってもやっぱり人は生きていく、街は甦るのでしょうね。
150年の歴史しかない横浜だけれど、比較的資料なども多い時代の150年興味あることは尽きません。また調べるすべがある歴史で面白いかもしれません。それでも永遠の謎もあるのでしょう。横浜に住む人は一度読んでおくと良いかな。