投稿者 スレッド: 「円山応挙から近代京都画壇へ」  (参照数 175 回)

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「円山応挙から近代京都画壇へ」
« 投稿日:: 9月 06, 2019, 09:54:37 pm »
「円山応挙から近代京都画壇へ」

今日、東京芸術大学美術館に「円山応挙から近代京都画壇へ」展を見に行ってきた。円山応挙はふるさと亀岡の京都府亀岡市曽我部町穴太(丹波国南桑田郡穴太(あなお)村)に享保18年5月1日(1733年6月12日)に農家の次男に生まれる。15歳頃まで同じ村の金剛寺の小僧を勤めるが絵の才能を認めた和尚の薦めで京都に出る。晩年にこの金剛寺にもふすま絵など寄進している。
当時京都では狩野派が衰退し、それに変わる絵師が待たれていた時期。与謝野蕪村、若冲などが活躍していた時代で龍とか鳳凰などの想像上の動物ではなく、虎、孔雀、猪、いぬ、鳥など写生を重視した親しみやすい画風として生まれた。円山派・四条派(与謝野蕪村、応挙の弟子の呉春が始めたとされる)の作品を一堂に集めた展覧会です。円山派・四条派は明治以降も近代日本画
にも影響を与えている。竹内鳳凰、上村松園、川合玉堂などもこの流れ。

会場に入ったばっかりに展示してあった絵巻物、これは花とか、葉っぱとか部品の描き方をカタログ風にしてあるもの、狩野派でもやっぱり部分、部分の描き方の見本があったようです。江戸時代終わり近くになってくると絵師の仕事もグループ(工房)でやる形態が定着していて、円山応挙の工房も1000人位の人が働いていたようです。

今回の目玉は兵庫県香住の大乗寺のふすま絵が10年ぶりに東京にやってきた。この展覧会は11月に京都で開催される予定です。 見応えのある絵です。生きているような感じ、写生が良い。若冲も良いけれど応挙も良い。江戸時代同時代で人気一番は応挙、二番が若冲、三番が与謝蕪村とか?諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。それまでは幽霊、妖怪など足もあったようです。ここの美術館は入場者が一杯で混雑することはあまりないようで、今日も少し待てばゆっくり見ることが出来ました。絶筆となった「保津川図」(亡くなる1年前に描く)が展示してありましたが、激流の流れ、その中を泳ぐ鮎、写実的に迫力があって、保津川の中に立っている感じで描かれています。亀岡の人間にとって保津川は精神的なバリアで、ここを下ると京都、東京、世界へと続く道、そして戻ってくると丹波へ誘ってくれる。京都の人とは違った保津川観をもっているように思う。水上勉の「金閣寺炎上」でも金閣寺に放火した小僧さんは山陰本線で福井に帰る途中、保津川に飛び込んでなくなった。場面が出てくるが、京都と丹波、それ以外の境界線として保津川を意識してしまう。

高野山真言宗 | 亀居山 | 大乗寺
http://www.daijyoji.or.jp/main/
臨済宗天龍寺派 金剛寺(応挙寺)
http://www.kongouji.net/
すべては応挙にはじまる。円山・四条派の系譜をたどる展覧会「円山応挙から近代京都画壇へ」が東京、京都で開催へ|MAGAZINE|美術手帖
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/19981