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日本史の中の横浜
« 投稿日:: 9月 23, 2015, 11:27:40 pm »
書名:日本史の中の横浜
著者:五味 文彦
発行所:有隣堂
発行年月日:2015/8/31
ページ:286頁
定価:1200円+税

「横浜の歴史」といえば、幕末の開港場として開かれてからと思われているが、横浜市(武蔵国都筑郡、武蔵国橘樹郡、武蔵国久良岐郡、相模国鎌倉郡からなる)村や町は戦国時代に姿を現し、その後の時代へと引き継がれている。突然幕末に港よこはまが出現した訳ではない。この地域の特徴は鎌倉時代は首都鎌倉の周辺地域として、鎌倉の経済、兵士供給等の補給地となって密接に鎌倉と繋がっていたこと。徳川時代になると首都江戸の周辺地域と江戸を裏で支えていた地域だったこと。そんなこともあって中世以降は六浦(むつら)の湊、神奈川の湊、幕末になって横浜の湊と発展して現在に至っている。

この本は五味氏の独特の視点、歴史を100年単位で区切ってその特徴を抽出しながらその時代時代を分析していく手法で、弥生時代後期から江戸時代に至る日本史の通史を通して、横浜市域の歴史的な役割とその特質を地域史から日本史へ、また逆に日本史から地域史へと縦横に綴られている。なかなか面白い試みです。今までにない横浜の歴史とその意義が見いだせる本と思います。なぜ横浜が今日のように発展するに至ったのか?が見えてくる本ではないでしょうか?
五味氏の得意は中世史ですが、和歌や随筆などの文学にも理解が深く、人間を深く観察されていてなかなか深みのある本です。

下記の2回の講演会(内容は基本は変わらないけれど、違った話も混ぜて面白い話でした)を聴講したのですが、7月にはこの本が出るという話がありました。
特別講演 交流する横浜「日本史の中の横浜」
日時:平成26年7月18日(土)14:00~16:00
会場:横浜情報文化センター6階

わがまち横浜再発見 ヨコハマの3万年の交流
特別講演「日本史の中の横浜」
日時:2015年9月19日 13:30~15:00
場所:横浜市歴史博物館 講堂

特別講演 交流する横浜「日本史の中の横浜」の時のメモ書き
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「開港の歴史的位置」ということで、最初は難波の津(大阪・大和)、博多の津(8世紀 奈良・京都)、兵庫の津(15世紀 京都)、長崎(17世紀 江戸)、横浜(19世紀 東京)というみなと横浜はこんな位置づけになる。では横浜地域は19世紀まで何もなかったのか?いやそうではない。

ここで五味文彦氏の歴史のとらえ方を披露。古代・中世・近世・近代という分類方法はおかしいのではないか?もっと細かく分類してみないと歴史を捉えないと判らない。中世800年ではおおざっぱすぎる。特徴を捉えられない。そこで氏の分類方法、100年をひとつの単位にして規定し直すと見えてくる。ひとつの政治・文化は100年毎に関連を持ちながら変化していると考える。

そこで1968年明治維新・国民国家・市民を起点に100年で過去に遡っていくと,667年天智称制・律令体制・制度化、866年摂政藤原良房・摂関政治・風景、1167年平清盛太政大臣・武家政権・身体、1268年蒙古の国書到来・東アジアの世界の流動・職能等、それぞれの100年に特徴的なキーワードで理解すると判りやすいのではないか。ということで年表を提示して説明。

古文書も大切ではあるが、それにとらわれると誤ってしまう。伊勢日記とか竹取物語とか文学からその当時の空気を感じる。捉える。文学はその時代を著している。時代の要請がなければ存在しない。しかし古文書として残っているのは一つの考え方、例。それも特異な例かもしれない。徒然草、古今和歌集等大勢の人に読まれた物にその時代のヒントが隠されている。

日本という一つの国が独自でそのままだったら成長も発展もなかった。そこには交流があったはず、そして国内においても西と東の交流があった。古墳時代の前方後円墳は巨大な古墳、それは何故作られた。一つの象徴(シンボル)として作られた。だから仁徳天皇陵が日本で一番大きい、古墳の大きさで支配関係と考えてはいけない。交流があったことで鹿児島県から宮城県あたりまで交流があったと考えるべき。一番大きい古墳の首長が全ての豪族を支配していたのではない。この古墳と同じように考えていいのは近世の城、これもシンボルとしてつくられたもの。近世的な城は南は薩摩藩、北は松前藩まで。これも交流と考えればいいのでは?

交流の場として「海岸地域と内陸地域の交流」「上野から武蔵への動き・武蔵の国造・屯倉」「東海道の形成・中央との交流」ということで相模国、武蔵国の国造ら豪族の支配領域が700年前後に決まった。青葉区荏田西の長者原遺跡(都筑評)、川崎市宮前区の影向寺遺跡(橘樹評)、天武天皇の時代の「諸岡五十戸」の木簡。など律令体制時代の武蔵国の交流を説明。

その後の歴史をいろいろな証拠を挙げながら、869年の貞観11年の地震と大津波、その後の878年関東諸国に起こった大地震、その後富士山の噴火で関東にも大きな影響を与えて人心動乱、都で摂関政治(今までは天皇家が一族でそれぞれの役目を担ってきた。摂関政治とは天皇家以外のものが政治に関わってきたという画期的なこと)で荘園の整理、受領による支配が関東にも及ぶ。10世紀頃

そして武士団の形成と、鎌倉幕府(鎌倉中)における武蔵の国(南部=横浜市)は首都圏だった。中心部鎌倉を支援する地域、四方八方に鎌倉街道(いざ鎌倉に備えて)が整備されている。鎌倉幕府の領域(中)は西が相模川、東が多摩川、その範囲にある地域が首都圏。
古今和歌集の編纂で有名な藤原定家の子孫は二条家、冷泉家、京極家と別れたが、冷泉家は鎌倉幕府(武家)についたことで生き残ることが出来た。建長寺というのは年号「建長」から取られた寺院。東国では珍しい命名。鎌倉がそれだけ勢力があったことか?

などなど興味ある話題が一杯の面白い講演でした。歴史好きには興味の持てる話題でした。また氏の歴史観が非常にユニークです。歴史の専門家、考古学者、文学者からは異端者と思われているかも。でも視点が素直で誠実があると思います。学者馬鹿でひとつの専門の中で理屈ばかりを捏ねている人たちにとっては苦手な人ではないかと思います。

中世から出てきた職人、家職、職能の形式化、型などが現在にもかなり影響を与えている。武士はこうあらねばならない。それぞれの職の専門化によって、がんじがらめになって来た歴史も理解出来るような気がする。しかしそれも100年を単位にみればその弊害が批判され、また改善される。少し長い目でみるとそれなりバランスを持って修正されながら歴史が流れてきたのかもしれない。

ただ「日本史の中の横浜」という視点で見ると五味文彦氏も困っていられたのか?時代で何とか横浜を考え、紹介したいのであるけれどあまりにも断片、小さな事柄しか見つからず、段々五味文彦氏の得意な古典、文学、中世の雑談の方に行ってしまう。それを何とか横浜に軌道修正を試みながら話しておられたように思う。横浜にこだわらない歴史の話をもう一度聞いてみたい気がしました。「日本史の中の横浜」という本を近々出されるようなので読んでみたい。五味文彦氏のことは初めて知りました。でも有名な方で、会場は一席の余地もない満員の聴講者でした。また講演の2時間があっという間に過ぎしてしまった。有意義なひとときでした。ちなみにタイトルの3万年は横浜市最古の石器(都筑区北川貝塚東地点出土)が発掘された。その地層の年代が28000年前とか。

この講演の参加料は500円でしたが、この企画を連携している有料の3施設(横浜市歴史博物館・横浜都市発展記念館・横浜開港資料館)への入場券(招待券)が資料と一緒に入っていました。早速同じビルにある横浜都市発展記念館(ハマを駆ける クルマが広げた人の交流&常設展)・横浜ユーラシア文化館(常設展)にも行ってみました。どちらも初めての所です。こんなところがあったのだ。

本書より(100年単位の分割方法)
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Ⅰ 未開から文明へ
五七   倭奴国、漢に朝貢      弥生時代後期
二六六  倭の女王、晋に使節派遣   古墳時代前期
三六九  百済、七支刀を倭に送る   古墳時代中期
四七七  倭の武王、宋に朝貢     古墳時代後期
五七二  敏達天皇即位        飛鳥時代
Ⅱ 律令制の導入
六六七  天智称制          律令体制
七六七  道鏡政権          律令体制の変容
Ⅲ 兵から武士へ
八六六  摂政藤原良房        摂関時代
九六九  摂政藤原実頼        後期摂関政治
一〇六八 後三条天皇即位       院政時代
Ⅳ 武家政権と東アジア世界の流動
一一六七 平清盛太政大臣       武家政権
一二六八 蒙古の国書到来       東アジア世界の流動
一三六八 応安の半済令        公武一統
Ⅴ 下剋上と大名権力
一四六七 応仁の乱の開始       戦国時代の到来
一五八八 織田信長の上洛       全国統一政権
Ⅵ 近世・近代
一六六七 東・西周り海運の完成    近世社会の成熟
一七六七 田沼政治の展開       近代国家の胎動
一八六八 明治維新          国民国家