投稿者 スレッド: 井沢式「日本史入門講座」5 朝幕併存と天皇教の巻  (参照数 274 回)

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井沢式「日本史入門講座」5 朝幕併存と天皇教の巻
« 投稿日:: 9月 17, 2014, 08:07:06 pm »
書名:井沢式「日本史入門講座」5 朝幕併存と天皇教の巻
著者:井沢 元彦
発行所:徳間書店
発行年月日:2008/12/31
ページ:324頁
定価:1500円+税

前権力者の血筋は根絶やしが世界の常識、でも日本ではその常識が通じない。平清盛は頼朝(元服を終えていた。普通ならば大人)、義経を殺さなかった。それが平家の滅亡の一つになってくる。これ以降戦国時代まで男系の子孫は殺すことが常識になってきた。でも何故か?天皇家を滅ぼしたものはいない。平安時代藤原氏の天下、彼らは自分たちの経営する荘園をどんどん増やして、天皇家直属の領地を段々減らしてきた。国家の経営に関わっているのに、国家は赤字、でも藤原氏(5摂家)は安泰。そんな太平の中、東国では武士が台頭してくる。もともと「けがれ」の思想から血を流す、殺すことなどは藤原貴族は与り知らぬ処、したがって検非違使などはけがれた職業、なり手が居なかった。国家とすると軍隊、警察は必須のもののはずが、平安時代の中期以降、国家としての軍隊、警察が無い状態。そんな中領地争い、盗賊などの被害から自衛する必要から武士が起こってきた。

その武士を旨く手なずけて一方と他方を秤に掛けながら操っていたのが、後白河法皇などの天皇家とその公家たち。そんな中、保元の乱が起こる、そこで源義朝、平清盛(後白河天皇側)が勝つ、そして源義朝は父の為義を殺すことになってしまう。そしてその後の平治の乱で敗れて、部下によって殺される。その後平家の全盛時代、約20年、その後木曽義仲、義経の活躍によって平家は滅亡。頼朝が鎌倉に幕府を開く。そして頼朝は「征夷大将軍」になりたがった。後白河法皇に強引な談判をするが後白河法皇は首を縦に振らない。何故頼朝は征夷大将軍にこだわったのか?征夷大将軍というのは都から離れた幕営で夷敵を征伐するための軍隊の長、そしてその戦場地域の軍事、政治、徴収の権利などについて独占的に権力を持つ。これはどういうことかというと朝廷の支配地であっても征夷大将軍は実質的に支配できるという特権。これは誰が知っていったか?多分頼朝は知らなかったのでは。貧乏公家崩れ大江広元ではないか。

簡単に言うと自分の支配する軍隊に報償として領地を分配してやることが出来る。それが出来るから武士は頼朝についていった。平家は武士でありながら、途中から武士達のことを忘れて、平家一門の繁栄に向かって、藤原氏と同じようになってしまった。それが滅亡した理由。(武士達に見放された)そして頼朝も晩年になって自分の娘を天皇の后にさせるようにいろいろ工作する。これに危機感を抱いた御家人達が頼朝を殺したのではないか?(頼朝の死について資料がすくなくよく分かっていない)そして2,3代も殺されてしまう。でも源氏が滅んでも鎌倉幕府は継続した。その裏に北条氏一族の影が。
頼朝は朝廷から任命される「征夷大将軍」という選択した。ここで天皇家を殺さなくても良くなった。それから江戸時代の終わりまで朝廷と幕府は併存(朝幕併存)の状態が続くことになる。

そして幕末に尊皇攘夷、開国が叫ばれる中、坂本龍馬が言い出したと言われている「大政奉還」、幕府とその他の藩(薩長など)が対立して戦争して清国などのように外国に侵入される危険を冒さなくても「征夷大将軍」という役職を返せば良いと。幕府、薩長の思惑はどうだったか知らないけれど明治を迎えることとなった。天皇家は特別な家系であり、神聖不可侵のものであって、それを絶やしてはならないという「信仰」はいつ頃からか?

江戸時代、儒学が盛んな頃、後白河法皇が義朝に父為義を殺せと命じた。それによって朝廷から政権が幕府に移った。といわれるようになった。(儒学は親孝行というのは重要な教え)
井沢史観が遺憾なく発揮されていて非常に判りやすい歴史の見方です。