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本阿弥行状記
« 投稿日:: 8月 02, 2013, 06:51:23 pm »
書名:本阿弥行状記
著者:中野 孝次
発行所:河出書房新社
発行年月日:1992/3/20
ページ:223頁
定価:1650円+税

京都の北西に鷹ヶ峰がある。ここは先祖本阿弥光悦が権現様(徳川家康)より直々拝領した地である。その60数年、その鷹ヶ峰をやむを得ず返上(取り上げられる)することになった。その前後の様子と鷹ヶ峰を去るに当たって、光悦の孫空中齋光甫(本阿弥光甫)が語り、その孫娘が記述したと言われる「本阿弥行状記」である。

本阿弥家は稼業を室町時代から続く家職の刀剣鑑定、研磨、浄拭を専らとする一族。その中で本阿弥光悦は安土桃山から江戸時代初期にかけて活躍したマルチ芸術家、稼業は勿論、書、陶芸、漆蒔絵、建築、作庭など幅広い分野で才能を遺憾なく発揮した。中でも書は近衛信尹、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と称されています。また当代随一の数寄者として知られています。この光悦、そして母の妙秀尼を中心に取り上げて先祖自慢にならないように客観的に語っています。

千利休のお茶は道具に家財を傾けても名器を揃えるという馬鹿なことやっていると本阿弥光悦は堂々と千利休という確立された権威に対しても物を言う人だった。物が豊富になることが幸せ、豊だと勘違いしている向きが多いがこの書の語るところはこころの豊かさを説いている。そして本阿弥一族の将来を背負った子孫に残すことばとして本阿弥光甫が信念を持って語っている。その迫力は凄い。

本書より
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成功しさえすれば万事それでよしするようです。どんな卑劣な手立てを使おうとも、結果として事が成就すればよし、成就しなければ悪しとする。そこにいたる心根は問うところではありませぬ。神仏を畏れるどころか、目をおのれにむけるどころか、ひたすらただ人の隙を窺い、隙あらば騙してでもかすめとろうと虎視眈々と狙っている。あざとい心根の者ばかりであります。

さような成功者たちは威張り、贅沢の限りをつくして、人に羨まれ、あるいは恐れられているかもしれませんが、決して尊敬されてはおりませぬ。人は心に律を持たぬ者を尊敬しないものであります。さような成功者たちは、いかに聡く、発明に富み、働き者で、世の動きを見るに敏であっても、人はそれだけでは決して心服もせねば人間として高く崇めることもありませぬ。

根っから、貧しく貧しい暮らししか知らぬ者は、心に余裕がないゆえむやみと物を欲しがるものである。金銀はむろんのこと、衣服でも食べ物でも田畑でも、なんでも今までより少しでも多く得ようと思い、得れば離さず、たとえ人に貪欲と慳貧といわれようと、名のことなそかまわずひたすら物を得ようとし所有が多ければよしとする。

これにたいし、持つことを知った者は、貧しい者の苦しみ判らず多いが上にも多く所有したがる者も数多くあり、それが普通であるけれど、しかしまた中には、物を持つことの恐ろしさ、物ゆえに人の心の歪むこわさをよく心得た人もある。本当に清貧の尊さを知る者はそういう持てる人々である。

清貧とはたんに貧しいことではない。たんなる所有の欠乏ではない、それはみずから望んで所有を少なくし、己れ一人持つこととを恥じ、持てるものをひとしく人に分かち与え。身の回りを能うかぎり簡素にして、持たざる事の中にかえって、心の豊かさを楽しむことの出来る者のことである。真に心の豊かなる人とはかような人を言う。茶の道の極意もまたそこにある。