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川和の歴史
« 投稿日:: 1月 27, 2018, 10:47:27 am »
書名:川和の歴史
著者:横浜市立川和中学校 
発行所:横浜市立川和中学校
発行年月日:1983/2/26
ページ:165頁
定価:非売品

1980年創設の川和中学校が3周年を記念して、1983年「川和の歴史」を発行し
た。この地域は港北ニュータウンの計画、実行が間近に迫っていたため、過去
の歴史の大切を知らせる意味でも、重要なことであった。川和富士も旧場所か
ら、新しい場所へ。花見山遺跡も発掘されたばかりで成果が見えてきた頃、都
筑の郡衙はまだ位置が確定していない時代。時代の変遷と共に川和の歴史が書
かれている。また古文書の釈文などが多用されていて、中学生には難しい内容
になっている。でも信田家文書、城所家文書、横溝家文書、岩沢家文書など引
用している。特に信田家の「幽篂日記」(幕末から明治の初めまで)は当時の
生活の様子がよくわかる。また川和は増上寺領であったから増上寺とのやり取
りの古文書がたくさん残っている。

ちょっと以外に思ったのは川和富士信仰、比較的新しくて明治になってからの
事。幕末に川和富士を作る話が出て明治20年代までかけて塚を築いたとのこと。
(旧川和富士:今より400m程離れたところ)江戸時代の富士山信仰の頃だとば
かり思っていた。港北ニュータウンの開発と共に新しい発見が続々と出てきて
いる。歴史に興味を持つきっかけになる本です。

1977年9月に川和高校の東側で花見山遺跡が発見され、1300点もの遺物が見つ
かった。これにより1万年以上前から人々が生活していたことが判明した。

中世は武蔵国都筑郡の川和郷であった。戦国期にこの地を所領したのは北条綱
成であるとされる。記録には、農民が借米をめぐって訴え、最終的には後北条
氏の評定衆が借米の催促を命じたとある。後北条氏はこの地に勢力を伸ばすと、
小田原城を守り関東進出の拠点とするため、廃城と化していた小机城(今の港
北区小机町)を修復。この城の支城として鶴見川沿いに川和城が整備された。
川の合流する川和は交通において重要な地であった。

江戸時代になると都筑郡の川和村(川輪村)となった。土地は増上寺領。家数
は133軒という記録がある。後期には神奈川宿の助郷村(人馬を提供する助郷
を負担する村)となる。

明治になると、1879年都筑郡役所が下川井から川和に移転して置かれ、以後は
周辺地域の政治経済の中心地として栄えた。

川和の由来は武蔵七党の猪俣党の河匂氏から来ているのか?河匂・川匂・川輪
・川和など。河匂氏の出身地といわれているところは中郡二宮町川匂神社付近、
久良岐郡河匂郡の2カ所です。

旧川和町の沿革
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、川和村、佐江戸村、池辺
村、東方村、折本村、大熊村、川向村および本郷村の一部が合併して都田村が
発足。
1934年(昭和9年)4月1日 - 都田村が改称して川和村となる。
1935年(昭和10年)9月30日 - 川和村が町制施行して川和町となる。
1939年(昭和14年)4月1日 - 横浜市に編入。
10月1日 - 旧川和町域が港北区の一部となる。
1994年(平成6年)11月6日 - 港北区の再編により、旧川和町域が都筑区の一
部となる。

都田の由来は、都筑郡の「都」と田園地帯であったことから「田」を採ったも
のである。
本来は「都筑村」を名乗る予定であったが、下川井村等の合併村も「都筑村」
を名乗るべく準備していたため、村名を巡る争いになった。結局丘陵地帯であ
った方が都岡村(「都筑の岡」の意。現在の横浜市旭区)、田園地帯であった
方が都田村を名乗ることで収拾した経緯がある。大字川和の当時の人口630人。
乳牛や養豚が盛んで、大正時代には川向のモモなどの栽培も盛んに行われた。
« 最終編集: 1月 27, 2018, 07:18:13 pm by admin »