投稿者 スレッド: 天地静大 山本周五郎長編小説全集  (参照数 298 回)

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天地静大 山本周五郎長編小説全集
« 投稿日:: 12月 03, 2014, 10:03:30 pm »
書名:天地静大(上) 山本周五郎長編小説全集17巻
著者:山本 周五郎
発行所:新潮社
発行年月日:2014/7/25
ページ:374頁
定価:1500 円+税


書名:天地静大(下) 山本周五郎長編小説全集18巻
著者:山本 周五郎
発行所:新潮社
発行年月日:2014/7/25
ページ:396頁
定価:1500 円+税

幕末の東北の小藩、中邑藩を舞台にした小説。江戸の遊学のために、杉浦透は親の決めた相手と形式的に結婚し、すぐに江戸に旅立つ。でも幼なじみの出戻り娘、房野なほと結ばれることをお互い決めていた。藩主の弟の水谷郷臣(もとおみ)に目をかけられた杉浦透は郷臣に援助をされながら学業に励む。

時代は幕末、尊皇攘夷派、佐幕派そんな熱狂的な人々にだんだん包まれていく。政治には関心のないし、それを避けてきた二人(水谷郷臣、杉浦透)も世の中のことは何も考えずにただ学問だけをやっていれば良いと言っていたが、だんだん渦中の動きに引き釣り込まれていく。
幕末の話の中の登場人物に戦後の自由主義の理想を著者の考える世界、政治などについて語らせている。男と女の恋愛観、男と女の生き方、家という縛りがなくなる可能性がある幕末の若者達の本音。青年はいつの時代でも不安で、どこにいけば良いのか?あとから観ると滑稽なことをやっている。それはいずれの時代も同じ箏。

本書より
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たとえ時世がどう変わろうとも、この山河は動かない。・・おれは自分の学問を守りぬいてゆくぞ。たとえ世の中がどう変わろうとも、自分は自分の道を進んでゆけばいい。あの山があのように在る如く、この川の水が流れやまないように、と彼は思った。

「勤王を叫び、佐幕を叫ぶ青年たちの大部分は、自分の心から叫び、信念によって行動するのではなく、接近しつつある大きな虚像の力に圧倒され、その不安と恐怖から逃れるために、虚像のふところへとびこんだり、反抗の気勢をあげているのだ」

「日本ぜんたいが転覆するかもしれないというのに、病人や孤児の世話に暇をつぶし多額の金を使うなどということがあるか」「こんな時代でも、大事と小事の区別がつかぬやつがいる。、蒙昧なもんだ」

この「口で壮烈を謳う」というのが水谷郷臣のいちばん嫌うところである。はっきりせず、にえきらない人物が、はっきりと嫌うのが、この「口で壮烈を謳う」ということだ。

「おれはよく知らないが、彼らはみな一命を投げ打っているらしい、王政復古のためなら自分はもとより、親や妻子まで道伴れにしても悔いはない、といきごんでいる者さえあるそうだ」「そういう言葉こそ、壮烈をもてあそぶというのものです」

「おれが中邑へいっていたとき、十年ほどまえのことだったが、西山の滝のところで二人の少年が喧嘩していた。一人が負けて逃げながら、この仕返しはきっとするぞとどなった、するとこちらの少年が、本当にそのつもりならだまってやれ、と云い返した」

「生きることはむずかしい、人間がいちど自分の目的を持ったら、貧窮にも屈辱にも、どんなに強い迫害にも負けず、生きられる限り生きてその目的をなしとげることだ、それが人間のもっとも人間らしい生きかただ、ひじょうに困難なことだろうがね」

「人間は逆境に立って、将来の希望も失われると、現実には存在しない、なにか不易なものを求めたくなるのだろう」

「人の生活は頭で考えるようにゆくものではない、しかし、考えなしにやればなにごとでもできはしない、考えたことの万分の一でも、実際に生かしてゆくのが本当の生活だと思う」

「人間にはそれ相応の知恵も思慮もあるのに、いつも愚かなあやまちをおかし、あとになってそのために苦しんだり後悔したりする、そのために一生を棒に振るようなあやまちをおかしながら、やっぱりまたあやまちをおかしてしまう、ばかなものだ、じつに人間なんてばかなものだ」

「いくら約束したって、人間は証文じゃありません、生身ですからね」

「世の中が泰平なら泰平で、若い人間にはやはり不安とか不満とか怒りや失望がつきまとう、なぜなら、若い人間は既にある社会状態の中へ割込んでゆくので、初めて海へ漕ぎだす船のように、事の大小強弱の差はあれ、不安や怖れを感じない者はない筈だ、われわれにとって大事なのは、自分の信ずる道に迷わないことだと思う」

「好ましく美しい愛こそ、人間を力づけ、仕事や勉学を正しく支えるのではないだろうか。たしかに「交歓」という意味に限れば、求めあうときにだけある、とも云えるだろう。けれどもそれは、逆に愛の一部分であって愛そのものではない。男と女が愛しあうということは単に「交歓」が目的ではなく、生活し、仕事をすることのなかに溶け込むものではないか」

「人間には選択する能力があって、自分の好ましい相手を選ぶことができるし、その相手を一生をともにしたいという、強い感情にとらわれる、好ましい相手とでなくとも愛し合うことはできるが、本当のよろこびは、しんじつ好ましい相手と愛し合うときでなければ感じることはできない、だからこそ愛というものは大切なんだ、この世で比べるもののないほど大切なんだ」

「愛する者のためによろこんで自分を犠牲にする者もいる。たしかに、それも愛の美しさの一つだろう。しかし、そういう犠牲の美しさも決して長くは続かない。しんじつの愛がいつも連続しているものではないように。・・・人間はどちらにも、長く自分を縛りつけておけるものではないし、どちらの感情も冷えてしまうものだ」

「人間にはそれぞれの性格があるし、見るところも考えかたもみんな違っている。一人ひとりが、各自の人生を持っているし、当人にとっては自分の価値判断がなにより正しい。善悪の区別は集団生活の約束から生れたもので、「人間」そのものをつきつめて考えれば、そういう区別は存在しない。人間の生きている、ということが「善」であるし、その為すこともすべて「善」なのだ。なにをするかは問題ではない、人間が本心からすることは、善悪の約束に反しているようにみえることでも、結局は善をあらわすことになる」

「人間は貧しさに耐えることはできるが、屈辱を忍ぶということは困難なものです」

「世間はこういうものだ、などということを、したり顔で口にするようになってはおしまいだ」

「政治はいやなものだ、国を治めるには政治が正しく行われなければならない、政治はなくてはならないものだ、しかしそこには必ず権力がついてまわる、人間生活のためにある政治が、いちど権力を持つと逆に人間を圧迫し、人間を搾(しぼ)り、人間を殺しさえする」

「散り際(ぎわ)をいさぎよくせよ、さくら花の如(ごと)く咲き、さくら花のようにいさぎよく散れ、・・・いやな考えかただな。この国の歴史には、桜のように華やかに咲き、たちまち散りさった英雄が多い、一般にも哀詩に謳(うた)われるような英雄や豪傑を好むふうが強い、どうしてだろう、この気候風土のためだろうか、それとも日本人という民族の血のためだろうか。こんなふうであってはならない、もっと人間らしく、生きることを大事にし、栄華や名声とはかかわりなく、三十年、五十年をかけて、こつこつと金石を彫るような、じみな努力をするようにならないものか、散り際をきれいに、などという考えを踵(かかと)にくっつけている限り、決して仕事らしい仕事はできないんだがな」

「永遠の愛とか、不変の愛などというものはない。男女の愛とは互いに求めあうときにだけあるものだ」
「勤王を叫び、佐幕を叫ぶ青年たちの大部分は、自分の心から叫び、信念によって行動するのではなく、接近しつつある大きな虚像の力に圧倒され、その不安と恐怖からのがれるために、虚像のふところへとびこんだり、反抗の気勢をあげたりしているのだ」