投稿者 スレッド: 街場の教育論  (参照数 288 回)

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街場の教育論
« 投稿日:: 8月 27, 2014, 04:47:59 pm »
書名:街場の教育論
著者:内田 樹
発行所:ミシマ社
発行年月日:2008/11/28
ページ:293頁
定価:1600円+税

前の安倍内閣のとき教育改革を叫んでいた頃の作品。政治課題として「教育改革というのは言うだけで結果を気にしないでいられる気楽な政策」ビジネス活動と違ってインプット/アウトプットの因果関係が長い長い遅延が発生するとので、その内閣の間、絶対結果がでない、政策すら実行されない場合もある。政治家としては言うだけ、福島の復興、原発の問題なんかも同じかもしれない。

著者は今は殆どの大学でなくなってしまったフランス文学専攻、神戸女学院教授。この教育論は現場の先生達に読んで貰いたいと思って書いたとか。教育を考えると文科省、教育委員会、PTA、先生、生徒、それ以外一杯関連した一大産業と化しているが、教育にとって必ず必要ものだけ選択していくと残るのは先生と生徒。実はこの2つ以外はいらない。そんな原点から考え直そうとする試みです。我々の若い頃よく言われたのが「でもしか先生」「先生にでもなろう。先生しかなれない」と。

戦前でも師範学校へ行く人は家が貧しくて、少し勉強できる給料が貰えるということで自分の意志ではなく先生になった人も多かった。また大学紛争華やかし頃活躍した左翼活動家の多くの人が先生になっている。小田実が代々木デミの講師、東大の全共闘議長山本義隆は駿台予備校で物理の講師など務めている。若い頃反体制を叫びながら、そんな異分子を受け入れたのがやっぱり体制だった。ちょっとした皮肉ですね。

先生というのは実は孔子、吉田松陰などを見ても判るように、自分でやったことでも言ったことでも全て先人、ご先祖の中にこんな偉い人がいた。その先人が言っていることですがと。例え自分の創作した言葉でも考えでも先人、そして私は先人、師に学んだが、学び方がまずかったのか師の域までは達することができない。しかし先人、師はその域まで達していたのだと。繋ぎ役に徹している。実は教育の原点は「繋ぐこと」では

その「繋ぐこと」で一番最初に学ぶこと、死者とのコミニケーション(人間の他の動物と違うことは死者という概念を見つけたこと)死んだ人をどう葬送するかという礼。そして死者を弔うことによってその人と会話をする。これはどんな民族でも持っている礼。

次に自分の体との対話。この筋肉思う通りに動かして、平衡を保つ。弓道、馬術。馬との対話。そして音楽。これは少し前の音を覚えていて音楽が流れている感覚を磨く。そこにない以前の音を感じることができる。こんなことを教養と言っている。

夏目漱石の「坊ちゃん」に登場する特徴ある先生達、実は今でもそのままの事が言えるのではないか?
だからいろいろなキャラがあって良いし、でもしか先生でも良い。教育はビジネスとは違う。トップダウンで行える仕事はそれぞれの仕事がユニット化、ルーチン化出来る仕事。

そのメンバーの実力、能力が把握できているときに使える手法。そして人事考課も出来る。しかし実力、能力の100%しか、当てにしない。教育で時にブレークスルーが起こる。師も本人も思ってもいなかったことが。火事場の馬鹿力が起こることがある。自分で自分の枠を作って、限界を小さく小さくして人の枠をぶち破らせることが教育の役割。

なかなか面白い視点が一杯の本です。そして先生の応援歌になっている。