投稿者 スレッド: 蒼き蝦夷の血 藤原四代  (参照数 1372 回)

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蒼き蝦夷の血 藤原四代
« 投稿日:: 7月 05, 2013, 10:22:10 pm »
書名:蒼き蝦夷の血(一)藤原四代 清衡の巻
著者:今 東光
発行所:徳間書店
発行年月日:1993/3/15
ページ:412頁
定価:583円+税

書名:蒼き蝦夷の血(二)藤原四代 基衡の巻
著者:今 東光
発行所:徳間書店
発行年月日:1993/3/15
ページ:340頁
定価:544円+税

書名:蒼き蝦夷の血(三)藤原四代 秀衡の巻(上)
著者:今 東光
発行所:徳間書店
発行年月日:1993/3/15
ページ:461頁
定価:602円+税

書名:蒼き蝦夷の血(四)藤原四代 秀衡の巻(下)
著者:今 東光
発行所:徳間書店
発行年月日:1993/3/15
ページ:446頁
定価:602円+税

芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」「五月雨の降のこしてや光堂」平泉藤原四代が100年余にわたって栄華を築いた黄金文化の都。当時京都に次ぐ日本第二の大都市(15万人とも20万人とも言われている)元中尊寺貫主の著者が晩年、渾身の筆を揮い、絶筆となった歴史大作。

坂上田村麻呂が蝦夷を討伐した延暦20年(801年)以後、250年程の間、陸奥国は比較的平穏を保っていた。その後阿倍氏が9世紀の後半頃から勢力を伸ばし、11世紀の初めには奥六郡の俘囚(中央では帰属した蝦夷を「ふしゅう」と呼んだ)長として実質的な支配力を持つに至り、奥六郡の北上川一帯に軍事的拠点を築いて一族を配置した。

永承6年(1051年)になって、陸奥守藤原登任(なりとう)が中央政府の権威と自分の権益のため、安倍頼良を討とうとしたが鬼切部で大敗した。

この戦いが発端となり「前九年の役」「後三年の役」が起き、康平5年(1062年)までに、源頼義やその子義家は、清原武則の援軍を得て安倍頼時や子貞任、宗任らを征討し、藤原清衡の父藤原経清は捕らえられ斬首された。この功績で清原武則は鎮守府将軍に任ぜられた。

その子、清原真衡の時代になって、弟清衡と家衡を滅ぼそうとしたが、病気で急死してしまう。そこで家衡が清衡を討とうとしたが、逆に一族を纏めていた清衡に滅ぼされてしまう。源頼義やその子義家は陸奥に力を及ぼそうとしたが、武力はあったが、政治力が無かったためついに陸奥を支配することは出来なかった。このことが、後の源頼朝の行動に繋がる。源氏の東北支配は一族の悲願だった。

ここからこの物語の本論が始まる。

藤原清衡は安倍一族の血を引いていて、父藤原経清の血を引いていることから蝦夷に信望があった。、奥六郡を支配。後に江刺郡の豊田館から平泉へ進出し現宮城県下まで支配した。棚ぼた式に阿倍氏の所領が清原氏へ、その全てを藤原清衡に、まれに見る強運の持ち主でもあった。また中央の関白家と綿密な関係を結んで藤原姓を名乗り、栄華を極める奥州藤原三代黄金文化の礎を築いた。中尊寺一山の造営を21年の歳月を掛けて完成させた(規模「寺塔四十余宇。禅坊三百余宇」)。また金色堂は69歳の時に完成させた。その4年後73歳で波乱に満ちた生涯を閉じた。

藤原基衡は、陸奥押領使となり、勢力を現福島県下まで支配した。性格は剛腹、果断と評され、中央の藤原氏と荘園問題で争ったこともある。大伽藍毛越寺を建立。中尊寺の規模より大きい、四十余宇、禅坊五百余宇に及んだといわれ、中尊寺をはるかに凌ぐものだった。通説では保元2年(1157年)に亡くなったと言われている。年齢不詳戦後の遺骸の調査結果から、50~60歳くらいで没し、死因は「脳腫瘍か脳溢血」と見られている。

藤原秀衡は、1170年鎮守府将軍に任ぜられ、1181年に陸奥守になった。白河以北を完全に支配。国府は多賀城にあったが、実質、平泉が陸奥国の行政の中心だった。源義経を少年時代と都落ちの際の二度にわたり庇護するが、1187年義経の行く末を案じながら病で急逝した。没年は不明だが、遺骸のレントゲン検査の結果から70歳前後と見られている。

元中尊寺貫主であるがゆえに、どうしてもこの藤原四代の物語を書かなければ、中央の歴史から抹殺されている平泉の黄金文化を世に出さねばという迫力が感じられる。この藤原四代は何故か、書物として書かれたものを残していない。藤原道長などは詳細な日記を残しているが、誰も残していないし、役職として史書を残すという習慣も無かったようだ。したがって未だに蝦夷、藤原四代の詳しいことは判っていない。中央の史書の中に断片的に出てくる資料しかない。それも悪意に満ちた、蝦夷を差別した言い方が目立っている。この四代の時代、日本の中に治外法権のある政権が並立していたのでは?

鎌倉の頼朝の幕府よりは平泉の方がずっと京都に近い、いや京都を超えて繁盛していた。頼朝などは平泉に攻めていったとき吃驚仰天したのではないか。今後の研究の成果を待ちたい。著者の思いが強いのかちょっと冗長的な感じがする。何度も同じ話が出てくる。その辺をすっきりとしても良かったのではないかなと思う。この最後の「蒼き蝦夷の血(四)藤原四代 秀衡の巻(下)」は残念ながら未完で終わっている。著者がどんな結論で終わりたかったのか、想像力をかき立ててくれる。