『武州豊嶋郡江戸庄図』(ぶしゅうとしまごおりえどのしょうず)
武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286168武州豊嶋郡江戸庄図
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru11/ru11_00384/index.html寛永9年(1632)に書かれたとされる、初期の江戸図を代表する絵図です。現在知られている限りで、最も古く、内容が正確だと言われている江戸図です。初期の江戸の町を知ることができます。明暦3年(1657)1月18日の大火で消失した天守閣は再現されることなく現在に至っている。この絵は消失前の天守閣を描いている。
江戸城天守閣 : 大江戸歴史散歩を楽しむ会
https://wako226.exblog.jp/15422691/江戸城五層の天守閣
江戸城の天守閣は、初代家康・慶長12 年(1607)、2代秀忠・元和9年(1623 )、3代家光・寛永14 年(1637)と代替えごとに3度建築されている。特に3代将軍家光の代に江戸幕府の権威を象徴するわが国最大の寛永天守閣が完成した。
江戸図屏風の寛永天守閣
天守台は小天守を付設した南が正面で、石垣は南北36.5m、東西33m、石垣の高さは11mである。天守台の地下室は深さ4m、広さ135坪で御金蔵・武器庫。その上の天守一重は336坪、二重、三重と順に狭くなり、最上の五層は92坪である。石垣の下から金鯱までの高さは51.5m。屋根は瓦葺きで、壁面は白漆喰の塗込めに、より防火に優れた黒い錆止めを塗布した銅板を要所に用いて火災旋風に備えた。天守の上に金色の鯱をいただく外観五層、内部六階の寛永天守が聳えていた。
江戸城天守閣炎上(明暦の大火)
三代将軍家光の嫡男家綱が四代将軍となって6年目のことである。明暦3年(1657)1月18日未明から北西風強く、暫く雨も降らず江戸市中には土埃が舞い上げていた。午後2時頃、本郷円山町の本妙寺から出火して、駿河台、日本橋、深川方面に延焼、翌19日午前8時に鎮火した。ところが、正午に小石川伝通院前の新鷹匠町から出火、北は駒込、南は芝方面に延焼した。さらに午後8時ごろ3度目の火の手が麹町に上がり、城の北西からの強風に煽られ、内濠を越えて江戸城内に延焼した。家光が造営した天守閣二層目の窓の扉留具のかけ忘れで扉の隙間から火災旋風が侵入、瞬く間に天守閣が火焔に包まれた。さらに本丸要所の櫓や多聞に保管した大筒や鉄砲の弾薬に引火、これを機に本丸御殿、二の丸と主要な建物を全焼した。しかし、途中で風向きが変わり、西丸御殿は罹災を免れ、本丸の避難先となった。