書名:西遊草 清河八郎旅中記
著者:清河八郎
訳者:小山松勝一郎
発行所:平凡社
発行年月日:1969/6/10
ページ:261頁
定価:不明円+税
清河八郎は尊王攘夷派の志士として動き回ったが、薩摩藩士を1000名上洛させるという情報を得て薩摩藩主島津久光に薩摩藩と全国の同志とで倒幕のために挙兵を実行し、一気に幕府を倒してしまおうと動くが、寺田屋騒動によって頓挫してしまう。
しかし、大胆な発想で、”敵になるはずの幕府に向けて、「身分を問わず、優秀な人材を集め、乱れた京都の治安を回復し、将軍家茂の上洛を警護するための浪士組を結成したい」と建言状を提出し、幕府に浪士組を結成させ、その浪士組を倒幕のために使おう”と企てる。そして新選組・新徴組への流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。発想、行動の大胆さで傑出した人物ですが、評判も悪い人と言われている。
この西遊草 清河八郎旅中記というのは年26歳の清河八郎が母を伴っての諸国漫遊日記です。
〈……北辰一刀流の達人らしく眼が鋭い。気力充溢(じゅういつ)し、態度は満堂をのんでおり、いかにも不適な感じがした。なるほど世間がさわぐだけのことはあった。当代一流の人物とみていい〉(司馬遼太郎『燃えよ剣』新潮文庫)『燃えよ剣』の主人公・土方歳三の「清河八郎」評です。
土方歳三に当代一流の人物と言われた清河八郎が安政2年(1855年)、半年かけて母親連れで、郷里山形を出発し、新潟から長野へ善光寺参り、名古屋を経て伊勢参りを済ませ、奈良・京都・大阪見物。岡山から香川に渡り、金比羅参り、次に安芸の宮島をお参りし、岩国の錦帯橋見物そして復路は、有馬温泉から東海道を下って、鎌倉へ。江戸の観光地巡り、更に日光東照宮をお参りして故郷に帰参という大旅行の様子を克明に記した日記です。
その中で時々つぶやく何気ない言葉の中に「当代一流の人物」と言われた片鱗が垣間見える。幕末の旅行事情知る上でも貴重は資料です。人々の様子などがよく描かれている。著名な人物との出会いも書かれているが、ちょっと辛口の批評も清河の人柄を現しているのかもしれない。また文章もなかなか教養あふれた名文です。清河八郎は満32歳で暗殺されたので幕末の歴史からはちょっと忘れられている一人です。お墓は伝通院にあります。故郷山形には清川神社が設けられています。
本書より
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〈天下の事情を知らないと、つい目先の利益に走り、不義も無礼も顧みず金儲けに専念する〉
〈酷(ひど)い災いを自分の目で見ないうちはどんなに昔から言い伝えがあるにしても、さほど恐れもしないのだが、今度は自分ではっきりと目で見たのだから大衆の心は何となく恐れるのである。これが愚かな世俗の風である〉