投稿者 スレッド: 無縁・公界・楽(増補)日本中世の自由と平和  (参照数 379 回)

admin

  • Administrator
  • Hero Member
  • *****
  • 投稿: 59141
    • プロフィールを見る
無縁・公界・楽(増補)日本中世の自由と平和
« 投稿日:: 5月 29, 2015, 05:28:10 pm »
書名:無縁・公界・楽(増補)日本中世の自由と平和
著者:網野 善彦
発行所:平凡社
発行年月日:1996/6/15
ページ:380頁
定価:1165円+税

初版は1978/6は発行された。この本はその増補版です。この当時著者は殆ど注目されたことがなかった中世の研究者。この著書で一般の読者に注目され、堅い本に関わらず一気に流行った時代が1980年代だとか?当時のバブル期の風潮もあって金儲け、市場経済主義に対する懐疑から選ばれたのかもしれない。日本語で自由という言葉は明治時代になってから発明された言葉。中世の無縁・公界・楽を自由といっている。

江戸時代でも東慶寺など駆け込み寺として有名ですが、治外法権の場所が中世には色々なところがあった。その事例を本書は古文書を元に例をあげその性格を分析している。例えば河原(鴨川)は鳥野辺(死体をすれる場所)など、処刑場、市、職人、芸能者などが住む特殊な場所としていた。そこは朝廷の管理する場所。その他堺の街、桑名の街、堅田の街など農民、漁民、武士、貴族、役人などとは違う人々が自立した街を形成していた。その根本原理が無縁・公界・楽の概念を言う。

有縁に対して無縁、この無縁は良い意味で使われることもあり悪い意味で使われる場合もあるが、ここで言っているのは当時の社会制度は有縁の世界でがんじがらめにされたいた人々とは別に、その罠から遁れた無縁の人々が居た。その例は通行税をとる関所、港、漁師、船で荷物を運んで居た人々それらは何らかの特権を与えられ、そしてその住む領域も公権力の及ばない地域として存在した。

戦後の駅裏などの闇市を想像すると判りやすいかもしれない。自然発生的に物を売る人々が寄り集まって市を開く、そしてそこにはそこの掟はあるが、公権力の及ばない場所、そしてそこを取り仕切るのはやくざ。そんな状態の場所が中世にはそこら中にあった。平安時代、室町時代など朝廷、貴族、守護、地頭の及ぶ範囲は一応全国になってはいるが、実はそんな中でも無縁の原理で生きる人々にもそれなりに存在できた時代。戦国が終わって徳川時代になってから彼らの特権も取り上げられて衰退してしまった。そんな視点を与えたのがその後網野史学と言われるらしい。

これは今までの定説から極端に逸脱した論、同業者からは強烈な批判、そして一般読者から支持されたとのこと。当時、この無縁の人々の割合から考えると網野説はちょっと強引なところがあるが、一部に限るならば支持できるところもある。そして人間の本質的な部分に無縁を志望するところがあるのではないかという気がする。

著者はこの本を書く動機として「何故日本の天皇は滅ぼされず延々と続いてきたのか」「鎌倉時代に何故宗教家が揃って出てきたのか」ということを知りたかった。と

「縁」という関係、その裏に「縁切り」があり、そして「縁」が切れる[た]ところが「無縁」という世界。その無縁の世界に豊穣な文化や芸能や職人、今で言うサービス業があったのではと問いかける。

網野氏は「縁」が切れる場所のことをアジール(避難所)と呼び、平安末期から江戸時代まで「縁」が切れる(た)場所の例をあげ。縁切り寺や自治都市、ここは世俗の権力が及ばないアジール(避難所)になった。一揆も一つの無縁。

「無縁」とは主従関係や親族などといった表の「縁」と切れた状態であり、そこから「無縁・公界・楽」の世界へ人々は入っていく、その「無縁・公界・楽」の特徴まとめると、
1.不入権
2.地子・諸役免除
3.自由通行権の保証
4.平和領域、「平和」な集団
5.私的隷属からの「解放」
6.賃借関係からの消滅
7.連座制の否定
8.老若の組織

と著者は言う。これをみると理想郷、桃源郷という感じもしないでもないけれど本当?という気もしてくる。アウトローに憧れた半端もの、やくざ、繋がってくる。現在の日本は一応法治国家で国家権力で支配されていると考えられているが、この支配、権力の及ばない場を求める心は誰にでもある。こんな根源的な原理が無縁・公界・楽の世界かもしれない。


本書より
---------------------
もとより、ギリシャ・ローマの市民の民主主義とキリスト教の伝統をもち、ゲルマンの未開の生命力に裏付けられ、中世を通じて深化し、王権との闘いによってきたえられてきた西欧の自由・平等・平和の思想に比べれば、「無縁・公界・楽」の思想は体系的な明晰さと迫力を欠いているといわれよう。とはいえ、これこそが日本の社会の中に、脈々と流れる原始以来の無主・無所有の原思想(原無縁)を、精一杯自覚的・積極的にあらわした「日本的」な表現にほかならないことを、われわれは知らなくてはならない。

堺は結局、信長の脅迫に屈し、妥協の道をえらび、あたかも多くの「無縁所」が、大名の権力を背景にその特権を保ったように、信長の庇護の下で、「自由」と「平和」を保つ方向に進んだ。それ故、信長の支配下に入ってからも、堺の「公界」としての本質が消え去ったわけでは、決してない。