書名:虚空遍歴
山本周五郎全集第十二巻
著者:山本 周五郎
発行所:講談社
発行年月日:1970/1/30
ページ:410頁
定価:480円+税
江戸で端唄の名人と評判のたった若き中藤冲也が、端唄だけでは飽き足らず、本格的な浄瑠璃を作ろうとして苦悶しんがら東海道、大阪、京都、近江、金沢と遍歴の旅に出る。第一作の浄瑠璃は中村座に掛かって好評を博するのであるが、これでも満足できず、しだいに行き詰まっていく。興行というのは、脚本、節、役者、興行主、観客からなるということも理解出来ず、第一作の興行に資金を出したのが義父(妻の父)ということを知った中藤冲也は第二作目の援助を堅く断ってしまう。するとその興行は中止、潮が引くように回りに人達は去って行く。
苦闘の中で大阪でもう一度やり直そうとして旅にでる。中藤冲也の端唄、才能を信じて「おけい」はどこまでもついていく。物語の進行の中でおけいの独自の独り言がこの小説の独特の特徴になっている。晩年にようやく40年暖めてきた作品を世に出したのが虚空遍歴、これは山本周五郎の遺言かも。若い頃読んだが、あまり印象に残っていなかったが、今回読み直してみると気がつかなかったことが一杯出てきます。味のある作品だと思います。
本書より
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人間が一つの仕事にうちこみ、そのために生涯を燃焼しつくす姿。――私はそれを書きたかった。ここでは浄瑠璃の作曲者になっているが、他のどんな職に置き替えても決して差し支えはない。
人間の一生というものは、脇から見ると平板で徒労の積み重ねのようにみえるが、内部をつぶさにさぐると、それぞれがみな、身も心もすり減らすようなおもいで自分とたたかい世間とたたかっているのである。
しかし、大切なことは、その人間がしんじつ自分の一生を生きぬいたかどうか、という点にかかっているのだ。「黄金でつくられた碑もいつかは消滅してしまう」ということも書いたことがあった。大切なのは「生きている」ことであり、「どう生きているか」なのである。
百年のちに知己を求めるとか、後世に名を残すなどという考えが、私の少年時代には一種のオーソリティーをもっていた。――だが、百年ののち知己や名声は、当人にとってまったく無縁なものにすぎない。こんにち充分に生きる、こと以外に人間の人間らしいよろこびはないのだ。
「男が自分の仕事にいのちを賭けるということは、他人の仕事を否定することではなく、どんな障害にあっても屈せず、また、そのときの流行に支配されることなく、自分の信じた道を守りとおしてゆくことなんだ」
「なんであろうと、人間が本気でやることはそのままで立派だ、人のおもわくなんぞ気にするな」
「いや高慢だ、自分で自分を裁くのは高慢だ、本当に謙遜な人間なら、他人をも裁きはしないし自分も裁くこともしないだろう、侍がおのれにきびしく謙遜で、人には寛容であれというその考えかたからして、腰に刀を差し四民の上に立つという自意識から出たもので、それ自身がすでに高慢なんだ」
「私は浄瑠璃で生きる決心をし、一生を賭けても自分の浄瑠璃を仕上げようと、そのことにぜんぶを打ち込んでやって来た、これからも、生きている限りやりぬいてゆくだろう、――だが、この道には師もなければ知己もない、師にまなび、知己に囲まれているようにみえても、つきつめたところは自分ひとりだ、誰の助力も、どんな支えも役には立たない、しんそこ自分ひとりなんだ」
つづめて云えば、世間の役に立つものを作るのだ。そして、役に立つかどうかは、その仕事で報酬が得られるかどうかできまる。金と仕事はべつだということも確かであるが、自分には満足だが金にはならないというものは、実際には世間の役に立たないといっても間違いではない。山中の芝居でおれが舞台から逃げ出したのは、浄瑠璃が失敗作だとわかったからでもあるが、その裏には金を貰ってもいないし貰う気もなかった、つまり金銭上の責任がなかったから、勝手に逃げ出すことができたのだ。