投稿者 スレッド: 鶴見川・境川 流域文化考  (参照数 633 回)

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鶴見川・境川 流域文化考
« 投稿日:: 1月 22, 2014, 09:09:20 pm »
書名:鶴見川・境川 流域文化考
著者:小寺 篤
発行所:230クラブ新聞社
発行年月日:1994
ページ:160頁
定価:1457円+税

鶴見川、境川流域の地名、文化、歴史を紹介した本です。まず地名ロウバについて牢の付く地名を鶴見川、境川周辺を探して、その成り立ちなどについて考察している。牢獄から来た説、馬飼から来た説の諸説を紹介しているが、牢屋、刑場などはかつての法規からもあって当然ということでロウバと呼ばれる場所が鶴見川、境川流域にもあったのではないかと言っている。

鶴見川流域の開拓と杉山神社を結びつけて、忌部氏の歴史、阿波、紀伊、安房との関連などを戸倉英太郎の「杉山神社考」を手本に批判も含めて自説を述べている。津田左右吉、上田正昭などは忌部氏が安房、上総、下総に影響を与えたとは考えられないという否定説。忌部氏と安房の関連を述べているのは古語拾遺の記事だけしか根拠がない。この記事を根拠にして戸倉英太郎は杉山氏系図を示しながら、杉山神社の成り立ちを説明している。津田、上田を崩すことが出来るか?
また杉山神社の祭神にしても大抵の神社は明治になってから祭神を決めた。それまでよく分からなかった。そこで五十猛命、日本武尊などにしている神社も多い。と。

太田南畝(蜀山人)が多摩川、鶴見川の流域を歩いている(1809年)その記録が「調布日記」に残されている。そのあゆみを検証している。
・雀のおやどは どこか知らねれど もちよっちょとござれ さきの相手に
・はごの子の ひとこふとこと 見わたせば よめ御にいつか ならん娘子
・全盛の 君あればこそ このさとの 花もよしはら 月も吉原
・香爐峰の雪のはたへをから紙のすだれかかげてたれかまつばや
など狂歌なども太田南畝は作っているが、幕府の役人も真面目に務めている。その一環として多摩川、鶴見川の流域の堰などの調査をしたようだ。しかし太田南畝は歴史、文化、人々の営みなどに興味を持って精力的に歩き回っている。鶴見川関連では小机村泉谷寺を訪れている。そこで「瓦礫集」恵頓和尚著を借りて書写を熱心に行っている。1809年頃の鶴見川流域のことが判る。

境川流域の開発に関わった氏族、この流域に多いサバ神社について紹介している。源頼朝、源義朝が祭神となっている神社が多い。義朝などは非業の内に亡くなったので御霊を祀るという御霊神社系(怨念を鎮める)土着の神を祀った神社が鎌倉時代、頼朝などを祀りはじめたのではないかと言っている。
渋谷氏の歴史なども詳しく書いてある。今の高座渋谷あたりに広大な渋谷庄があった。

都筑とは少し離れるところもあるが、鶴見川、境川(相模)のことが判る本です。