投稿者 スレッド: 魔将軍 室町の改革児 足利義教の生涯  (参照数 351 回)

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魔将軍 室町の改革児 足利義教の生涯
« 投稿日:: 11月 06, 2013, 06:04:47 pm »
書名:魔将軍 室町の改革児 足利義教の生涯
著者:岡田 秀文
発行所:双葉社
発行年月日:2006/3/15
ページ:389頁
定価:1800円+税

室町幕府6代将軍足利義教、3代将軍義満の3男、当時長子以外は僧籍に入るのが常、義教も青蓮院に入室し得度して門跡となり義円と名乗った。その後153代天台座主となり、「天台開闢以来の逸材」と呼ばれ将来を嘱望されていた。本来ならば門跡のままで終わるところ。4代将軍兄義持、引退して5代将軍足利義量の後見役、実質的には義持が政を行っていた。義量急死、義持も病を得るが、危篤に陥っても後継者の指名を拒否し後継者も決めずに死んでしまう。

そこで三宝院満済や管領・畠山満家ら群臣たちが評議を開いた結果、石清水八幡宮で籤引きを行い、義持の弟である梶井門跡義承・大覚寺門跡義昭・相国寺虎山永隆・青蓮院門跡義円の中から次期将軍を選ぶことになった。この籤引き(三宝院満済の裏工作による)で選ばれたのが義円、後の義教。最初は将軍就任に難色を示していたが、群臣たちの強い要請に「かりに予が将軍となれば、あくまで予は予の姿勢を貫き通すであろうぞ。さすれば守護大名や宿老たちが、予を将軍へ推したことを後悔するであろう」―そう言い、で将軍の座についた。

室町幕府は初期の頃から幕府の権威、権力は弱く、有力守護大名たちに担ぎ上げられた御輿のような政権だった。足利義教が将軍になったころにも、九州には幕府に反抗的な勢力、東国は鎌倉府の反抗、比叡山延暦寺には何かあると御輿を担いでごり押しする僧兵。国事多難の時。幕臣を育てることからはじめた。力がないときは使える守護大名を使い、ようがすめばお払い箱。非常に合理的なやり方。これに危惧を抱く宿老三宝院満済が諸大名たちの間に入って、いろいろと心遣いをしていた。

幕府の力を強力にして幕藩体制を築こうとして、生き急いだ義教。時には比叡山延暦寺に対しても軍隊を送って威嚇して、今までのように延暦寺には屈しなかった。九州統一が終わると、東国支配鎌倉府を実質的に勢力下に置くと、次は有力大名の勢力分断、家督相続に介入して、支配国を少なくしていった。このような実績をじっくり見ると織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はこの義教の摸倣をしていたに過ぎない。ちょっと速すぎた時代に生まれた義教、あまりにも時代より先をいっていた。有力大名つぶしに危機感を持った赤松満祐に殺されてしまった。実際は赤松氏随一の武士安積行秀が義教の首をはねた。

足利義教という名前は知らない人の方が多いと思うけれど、室町幕府としては最盛期を築いた将軍でなかなか優秀な政治を行った。ただ義教が亡くなったとき後継者が未だ幼児だったこと。「強い幕府、強い組織をつくる」の途中だったこともあり、またその後応仁の乱、戦国の世になってしまって、世の中が落ち着くのは江戸時代。早く生まれすぎた将軍という感じです。

室町時代という時代背景、武士の台頭、政治の要諦など面白い視点で分析していると思う。岡田秀文の視点はなかなか面白い。この小説の裏の主役は醍醐寺三宝院満済(義持、義量、義教の叔父、義満の弟)であろう。将軍の相談役として政に深く関わっていたし、人事にも。この人に焦点を当てた小説とも言える。