「江戸しぐさ」
江戸の町は、18世紀にはその人口140万人に達し、当時世界最大の都市となっていた。その人口密度は現在の東京よりも、なお高かった。江戸の市街地の大半は武家の住居により占められていたので、江戸の人口の大半を占める町民は限られた地域にひしめき合っていたことになる。町人地の人口密度は現在の豊島区の3倍にも達していたほどであった。そんな暮らしぶりではあったが、江戸の町民はこんな江戸の生活を結構楽しんでいたようなのだ。徳川の御世は260年続いたが、これは幕府の強権的な支配によって、維持されたというより、町民がこのお江戸が居心地よく、この環境を町民自ら求めたからにほかならない。
江戸っ子は三代続いて、はじめて江戸っ子とよく言われる。そもそも、江戸の町の成立の経過からして、土着の江戸っ子などはいないのであって、江戸の人々は元はといえば各地から集まった人たちなのだ。そこで、三代かけて磨き上げなければならない江戸っ子の気質こそが、「江戸しぐさ」と呼ばれるものなのである。江戸っ子は自分の見識を尊重した。相手を思いやる事を第一義とした。自分を磨き、そして相手を尊重すること、身分や血筋、門閥に捕らわれず、自由な発想が出来る人間を「江戸っ子」として認めたのである。ここには、江戸時代という封建制のなかにあっても、それに拘束されない、自由人たる江戸っ子の生き様が見えてくる。
「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」といって子供を教育した。三歳までに素直な心を、6歳になるとその振る舞いに節度をもたせ、9歳では人様の前でも恥ずかしくない言葉遣いを覚えさせ、12歳ではきちんとした文章が書けるようにさせ、15歳にもなると物の道理がわかるようにしなければならないというものであろう。この教えは現代にも通用する教育論である。
「お心肥やし」。江戸っ子は教養豊かでなければならないということをこう呼んだ。ここでいう教養とは読み書き算盤のほか、人格を磨く事が何よりも大切なのだという意味合いが強く込められている。
「打てば響く」。江戸っ子はすばやく対応することを身上とした。当意即妙の掛け合い、初対面で相手を見抜く眼力など、その切れ味が真骨頂とされた。
「三脱の教え」。初対面の人に年齢、職業、地位を聞かないルールがあった。これなどは身分制度を全く意識させない教えであり、相手を思いやる心と、人を肩書きだけでは判断しないという、何事にも捉われない意気込みがみてとれる。
「時泥棒」。江戸城の時計は一分の狂いもない正確なものであった。このため、幕府に仕えている武士ばかりではなく、商人たちも時間には厳しかった。現代でもまったく、同じことなのだが、都会人のマナーというべきであろう。
「はいはい」。物事を頼まれた時の返事は「はい」の一言でよい。一人前の大人に返事を繰り返すことは、目上の人に向かって念をおす行為と受けとられ、してはならない失礼とされていた。
「往来しぐさ」。往来でのマナーのことである。狭い往来をすれ違う時など、ちょっと会釈をし、「肩引き」をして、お互いがぶつからないようにするとか、雨のしずくが相手にかからないように「傘かしげ」をするとかいったような、ちょっとしたエチケットのことをいった。こんな素振りも粋にみえる。
「指きりげんまん、死んだらごめん」。人間の約束は必ず守るとされた。たとえ文章化されていない口約束でも絶対に守った。「死んだらごめん」とは命にかけて約束を守るということなのだ。
このように見てくると、江戸っ子が思い描いた「粋な江戸っ子」は歌舞伎の世界で立役として、存分な活躍をしていることがわかる。「暫」での鎌倉権五郎景政、「助六」の助六、「め組み」の辰五郎、などなどである。江戸でもてはやされた「勧進帳」や「仮名手本忠臣蔵」にも江戸の人々は喝采を送った。江戸の心が生きているお芝居なのであるからであろう。「江戸っ子」はじつに素敵な野郎だ。(越川禮子;「江戸しぐさ」、講談社より)