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つれづれなる(1)

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自分を作る(自分作り)
  何事も人のせいにしないで困難に立ち向かっていける行動力のある人間になる必要がある。
  自分が動かない限り人は動かない。
  人が動かない理由は簡単で自分で動こうとしないからである。その人に動いてもらおうとするならば自分で動きたくなるようにしてやることである。
  人よりほんの少し、このほんの少しが時間が経てばたつほど大きな差となってくる。仕事にしても、お金にしても、勉強にしても人よりほんの少し頑張ってみる努力を惜しんではならない。うまくいかないときは普段に増して我慢である。
  ただの人と偉大な人の差は案外こんなところにあるのではないか。

世の中は
 この世の中で起こることはどんなに重大なものであっても、この世で解決できるものである。あの世までもっていかなければないものはない。
  このことを肝に命じて余り悲観的になってはいけない。心はいつも楽天的に考えるようにしよう。そうすれば自然によい方向に向かうものである。
  悲観的な見方で物事を眺めることは止めよう。いつも明るく、明るく、楽天的に考えることにしよう。

仕事を順調に進めるには
  基本的には当り前の事を確実に行うことである。また確実に行われているか常にチェックをして行われていないならば軌道修正をして当り前に行われるようにしていく事である。
  そうして行くためには常に素直な気持ちで仕事の進行状況を眺めていなければならない。
一時の感情、状況において無理を重ねて辻妻あわせ的な仕事の仕方をしていくと、一時的にはうまくゆくかも知れないが、長い目でみると得るものより失うものが多いという結果になってしまう。
  常に謙虚に素直に仕事に対して何が当り前のやり方かということを見つめていなければならない。
  仕事によっては当り前の事というのは全ての仕事が終ってから見えてくるものがある。またその方が多いかも知れない。
  しかし、それでは今の間に合わない。従って仕事を始めるときに見えるようにしないといけない。
  そのためには今までの経験に基づく見通し、経験者の意見、事前に調査できるものはかなりあるはずである。自分以外の人の協力をいかに得るかということかかってくると思う。
  知らないことと知っていることの区別を厳密にできるようにしないといけない。このことが完璧にできれば自分で判っていることは自分で行い、判らないことは他の人に協力をお願いすることができる。
  世の中には色々の才能のある人がいるものである。何を知りたいかをはっきりすれば判る人は絶対に見つかるものである。
  そのためには設問の仕方を工夫する必要がある。設問が悪いと答えは自分の望んだものと違ったものになってしまう。
  いつも素直な目で自分を知ることに努力すると共に何が問題なのかを冷静に考えておかなければならない。

成長構造からの脱却
  国家の経済も会社の売上も上がるサラリーマンの給料年齢と共にも必ず成長するという前提の元に組み上げられている日本社会において、そろそろ成長の構造を根本から見直すべき時がきているのではないか。一時第二次石油ショックの直後に言われていた成長亡き成長低成長時代に入ったという事がすっかり忘れられてしまって、バブル経済の時代に本質を見失ってしまっている。
  今までのように世界の中で比較的小さい存在のうちは10数%の成長であっても、元々の母胎が小さいから成長する余地が残されていたが、これだけ大きな存在となってしまうと少しの成長が世界に与える影響が無視できない存在となってしまったということを知るべきである。
  したがって、適度の成長をどの様に考えるかという概念を十分考慮する必要がある。昔の英国のように数%の成長で世の中がうまく行く仕組みを考え出さないといけない。成長がなくても繁栄していける仕組み作りにそろそろ取り掛かる時代になってきていることを自覚しないといけない。
成長と進歩は果して善なのかこれら2つがないといけないものなのか?

 お布施ということについてよく考えてみないといけない。
お金、ものを施すことがお布施ではない。親切にしてあげる、笑顔で応える、周りを明るくしてあげる等、いろいろ考えられる。

人生の目的とは?
  一つの方便である、ある目的までたどり着くと次にまた次の目的が現れてくる。そして一つだけが目的となってはいけない。一つだけだと達成できなかったときに立ち直りようがない。毎日毎日を充実して生きて行くこと。これが人生の生き方ではないか。
  一つだけの目的としてはいけない。毎日毎日の生活の中に真理がある。

 人生の終わりから生きている時代。各人生の切れ目において、いい会社にはいるためには、いい学校に入らないといけない、というようにいつも損得ずくで物事を考える習慣が身についてしまっている。しかしこれでよいのだろうか。もう少しおおらかに考えることはできないのか。終わりを考えての人生なんてなんと感動のない人生だろう明日の事は明日に任せて今を生きる工夫をしないといけないのではないか。人間の浅はかな知恵で先の事ばかりに気を使って生きることはやめにしよう。

 娑婆はつらくとかく住みにくいところである。でもつらく住みにくいところに耐えて生活して行くのが人間である。忍耐、耐えることこれを失ってはいけない。自分に厳しい人はえてして他人にも厳しくなってしまうけれど、自分が簡単にできても他人にはできないことがあるということを充分知らないといけない。
  弱者を思いやることのできる気持ち、心持ちを持ちたいものである。

 この世は結縁によって結ばれている。時間的結縁、空間的結縁の二つによって成り立っている。時間的とは原因と結果のあるもの、雨の日びしょぬれになって一日中外にいたために風邪を引いたというように因果関係で説明ができるものである。
  空間的とは男と女、自分と会社というように因果関係のないもの。したがって全てに結縁関係があるのである。自分一人ということは決してない、なんらかのつながりをもって世の中に存在しているのである。そして迷惑をかけたり、かけられたりしながら生きていくのである。だから人の迷惑にめくじらをたてる事なく堪え忍ぶことのできる生き方をしないといけない。

  因縁とは
大地に種を蒔き芽がでるように種子を因として土地、水、太陽の光等を縁として、植物が発芽する。これはすべて因縁のせいである。



 人間が生きて行くということは真理を追求することにある。発展、成長というのはいかに真理に近づいて行くことができるかということである。科学、経済が発展すると言うのは本来の目的と違ったところを狙っているように思えてならない。
  人生において真理を追求する過程での方便が重要になってくる。真理にいたる道のりが人生究極の目的ではないか。そこからこれからの生き方が見えてくるのではないか。

  真理とは自然のことわりの事である。こだわりのない目であるがままに見ることができるように訓練しながら到達する境地が大切である。自然界に存在する不思議な意志をあるがままに見ることのできる目を育てないといけない。

  これからの企業は給料を今の倍、時間を20%削減する意気込みでいかないと新人類からそっぽをむかれてしまう。こういう事を実現している企業が出てくると他の企業は倒産するより仕方がなくなる。

  情報の本質は差異すなわち違いが判ることである。ネスカフェゴールドブレンドみたいなものだ。

 他の先進国に対して日本は物価が高い、住んでいる住宅が狭い、労働時間が長いという3つの問題があるからまだまだ豊かさを感じられない。という議論があるがはたしてそうであろうか?
  例えば、物価が安くなって何を買えばいいのか、住宅が広くなって何をするのか、労働時間が短くなると何をするのかそういう事を少しも考えずにただ外国に比べてどうだという議論は避けなければならない。3つの問題が解決することが日本人が幸福につながるとはどうしても思えない。
  何が幸福なのかということを十分考える必要がある。

 投機と投資と消費はどう違うのか。これは客観的な見方で見るということができない項目ばかりである。今までの経済学の常識というのは以外とこのような定義の曖昧な言葉を使いながらさも判ったような気分になっていたのではないか。ほとんど主観的な見方しかできないのが未来への経済ではないか。バブルというのも同じように思える。何を持ってバブルというのか難しい問題だ。

  国連憲章と日本国憲法は非常に理想状態を目指したものである。従って、世界の各国が同じように考えていると思ってはいけない。それぞれに自国に利益になることを最優先するというのが普通の考え方である。腹黒い世界にあって日本のように腹白いというのは希にみる良い存在である。この特徴を生かして世界にアピールする発言をしないといけない。開発途上国援助にしてももっとはっきり日本の条件を出して輪郭のはっきりした基準をアピールした上で行うべきである。広く薄くよりは狭く厚く行う方が日本の存在価値を世界にアピールできる。誰とでも仲良くするというのは理想であるけれど現実はなかなかそうはいかない。
 日本の土地は高いという問題を考えてみよう。でも本当に地価は高いのか?

 いままで日本人が持っていた貧乏意識をそろそろ捨てるべき時がきたのではないか。余りにも世の中に物が豊富になってきたけれどいつまでたっても心の満足は得られない。物を持つことによって得られる満足ばかりを追いかけて来すぎたのではないか。世界中を見渡してみても今の日本ほど自由で平等でほどほどに金持ちで非常に幸せな国である。今以上に何を望んでいるのか。本当にほしいものというのが判らなくなってきているのではないか。金、物で得られる幸福は今の日本にはないような気がする。少し取り分が減ってくると気違いのように今までの既得権を振り回す人々ばかりが増えてくる現象をどう捕らえれば良いのか。少し大人になって自分が羽振りが良くなれば理屈ではなく困っている人のためにはかなりの我慢をして多めにみてあげようという気持ちが必要である。
  少しの犠牲の上にたつ大勢の幸福ということを考える必要がある。いつまでも日本人が犠牲者という感覚はいけない。こういう感覚でいつも被害者意識で行う加害的行為が世界から日本叩きにあう原因になっているのではないか。

 国際化、国際化と叫ばれる中で何が国際化なのか判らない人が多すぎるような気がする。英会話が出来ること、外国にいくこと、等いろいろ有るが本当の国際化とは世界の中にあるいろいろな倫理感、主義、主張、考え方、それらの物を許容して受け入れることが出来る感覚を養うことであると思う。違うことがすぐ悪いことではなく、違うことがあるという事実を受け入れることである。

  一般的に世界の常識は善悪の判断ではなく、損得の判断で人間は動くということを知らなければならない。善悪というのは非常に人間の主観的感覚である相対的価値観である。損得は絶対的価値観である。

  一人よがりの善悪の判断はやめよう。自分の主観的感覚でしかないのだから、100人の人間がいれば100通りの考え方があり、善悪の判断も100通りあると思わないといけない。

  高齢化社会ということは老人の人口構成が他の世代に比べて増えてくるということである。20%を越えてくると今までの福祉の実現も考え方を変えないといけない。というのは20%ということは4人で1人を養っていくということである。これは現実には夫婦2人で子供と老人2人を養うことになる。これならばわざわざ税金を集めて役所の管理費を除いた分を再給付するよりも各個人が両親の面倒を見た方が効率的である。このような時代に直面しているのである。

  今までのようになんでも政府が面倒を見ないといけないという感覚から脱却しないといけない。それほどの力も予算も政府にはなくなってきているということを知るべきである。政府に頼らなくても自分で出来るように一人立ちが出来るようにするべきである。個性が多様化してくる時代には政府は強力なバックボーンとはなれない。

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