投稿者 スレッド: 柳沢家の古典学(上)松蔭日記  (参照数 2226 回)

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柳沢家の古典学(上)松蔭日記
« 投稿日:: 7月 14, 2014, 06:56:28 pm »
書名:柳沢家の古典学(上)松蔭日記
著者:宮川 葉子
発行所:新典社
発行年月日:2007/1/24
ページ:1230頁
定価:30,000 円+税

この本は作者の執念?が詰まっている傑作か?江戸中期に異例の出世を遂げた柳沢吉保。 その側室・正親町町子による吉保栄華の記録『松陰日記』を東京から奈良郡山の「柳沢文庫」へ20年間通い続けて原文を解読した内容になっている。

柳沢吉保は将軍綱吉とともに歌舞伎など昔から悪名高い人。でも最近ではかなり評価も見直されてきている。江戸時代で一番政局的にも安定しているし、経済的にも安定した時代を大老・将軍のコンビで成し遂げてきた有能な人だった。それも和歌など文芸、文化、庭園などにも教養深い知識人の面も持っている。また綱吉が亡くなると、すぐに隠居して「六義園」に遊ぶ風流人。

柳沢家の公式な記録書は「楽只堂年録」、そのカナ版が『松陰日記』と考えられる。柳沢吉保28才の時出羽守に補された(1685年)から隠居した後数年(1704年)の約4半世紀の吉保栄華物語です。

文章は「源氏物語」「伊勢物語」「古今和歌集」などの教養深い知識人が書いたとても優雅な名文が流麗なリズムで書かれている。そして「猶筆こそ語りありけれ」これは源氏物語桐壺巻に等随所に源氏物語他のことを知っていないと真意が伝わってこない。著者の宮川葉子は注釈でそれらを一点、一点確認して出所を明記している。勿論判らないところは判らないと。また原文の文字を一時ずつ読み方を調べ、文章を現代語訳=通釈をしている。そしてそれぞれの語句に注釈をつけている。大変困難な仕事をです。
正親町町子とは和歌にも源氏物語にも古典に通じていた教養人。16才で吉保の側室になった。どんな人だったのだろう。通説では父は正親町実豊、母は身分の低い女、遊女かと言われていたが、著者が柳沢文庫などを調べて父は正親町公通(実豊の子)、母は江戸城大奥総取締役の水無瀬氏信の女「左衛門の佐」と確認している。正親町家は実は和歌の冷泉家と並ぶ三条西実隆の正統な流れを組む家。

そして柳沢吉保も公家、天皇家との交流も活発に行っていた。天皇の御陵が荒れ放題になっているのを修復したり、全国の神社仏閣の復興など、行政だけではなくこう言った所に気配りをして公家の生活の向上にも寄与した。勿論綱吉の了解があってのことであるが、そして自身も古今伝授を受ける位まで和歌についても上達し、退位後の霊元院(第112代天皇)に和歌の添削をしてもらったり、和歌を送られたりしている。

最初に霊元院に誉められた和歌
生駒山
嵐吹く 生駒の山の 秋の雲 曇りみ晴れみ 月ぞふけ行
玉川里
朝日影 さらす手づくり 露敷て 垣根に満たす 玉川の里

その後も柳沢家で歌合(正室、側室、子供たち)を行ったり、家族それぞれ歌の道には長けていた。また公家、歌人などの訪れも多い。そして将軍綱吉が50回以上、吉保の館を訪問している。そのたびごとに半端ではない大量の下賜品(佩刀、馬、鞍、綾錦、金、銀など)を賜る。逆に贈答する。そして将軍のご訪問を祝って、各大名からの贈答品。吉保が出世するたびにお祝い。家と家のお付き合い事(多分凄い物入りだったのでしょう)それを第三者から見ると賄賂を取っている吉保、ゆるさじと嫉妬を含めて次の将軍家宣の政治顧問新井白石など悪し様に言いつのった(折りたく柴の記)極貧の根性の捻くれた白石の嫉妬だったので。それが世間受けして歌舞伎他にも広まって悪名高い柳沢吉保像がいまでもまかり通っているので。350年ずっと悪く評価されていた吉保を見直すには最適なテキストです。
またまだまだ解明出来ていない「柳沢文庫」も興味が出てきました。この後の研究に期待したい。

松蔭日記の原文は教養があって格調高い、流れるような綺麗な文章ですが、現代語訳=通釈はいけません。英語の本の翻訳のような感じで、意味は判るのですが、それ以外の情報は感じられない。源氏物語と古典の参考書の訳みたいな感じ。与謝野晶子などの訳などはそれなりに格調高い。これは望みすぎか?今後の作家が松蔭日記を文学的に良い文章で語ってくれることを期待したい。今までの常識とは違った柳沢吉保、綱吉の魅力が見えてくる本です。再評価したい二人ですね。歴史で悪人になっている人は実は魅力は触れる人が多いような感じもします。

メモ書き
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六義園の「六義」は「古今集」仮名序で紀貫之がのべた「そえうた(諷歌)」「かぞえうた(数へ歌)」「なずらへうた(準歌)」「たとへうた(譬歌)」「ただことうた(徒言歌)」「いはいうた(祝歌)」の風格による。

愛知県岡崎市鴨田町にある成道山松安院大樹寺(松平家と徳川家の菩提寺)に歴代将軍の等身大の位牌(薨去したときの身長)
初代 家康 159cm 二代 秀忠 160cm 三代 家光 157cm 四代 家綱 158cm
五代 綱吉 124cm 六代 家宣 156cm 七代 家継 135cm 八代 吉宗 155.5cm
九代 家重 151.4cm 十代 家治 153.5cm 十一代 家斉 156.6cm
十二代 家慶 153.5cm 十三代 家定 149.9cm 十四代 家茂 151.6cm

*家継は5才で即位8才で薨去

松蔭日記とは松平(将軍家)の陰を支えての意。