投稿者 スレッド: ただ一人の個性をつくるために  (参照数 767 回)

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ただ一人の個性をつくるために
« 投稿日:: 11月 14, 2012, 12:21:33 pm »
書名:ただ一人の個性をつくるために
著者:曽野綾子
出版社:PHP研究所
発行年月日:2004/3/5
価格:1300円+税

曽野綾子の教育論である。今の世の中では結構過激なことをためらいもなく
書いている。はっきりものを言う人です。それも納得出来ることが多い。い
ちいち頷きながら読みました。ケータイ、メールについても自分ではやって
いないといいながら本質をついていると思う。「教育の最終責任者は自分で
ある」当たり前のことであるが、すぐに他の人のせいにしたい。してしまう
風潮に警告を与えてくれる。逆に子どもたちもある時期になったらこのこと
を自覚させることが必要では。今こんな事をはっきりという親も、教師もい
ないのでは無いかと思う。

 「教育はすべて強制に始まる」これも名言だ。また当たり前のことですね
。子どもの権利、人権という隠れ蓑に隠れて親の責任を果たさない人が増え
てきているのでは、人が人として生きていくための基本を身につけさせるこ
とは親の仕事(これはどんな動物でも自分でえさが取れるまで一生懸命訓練
いや教育をする)。自然の摂理ですね。眠り姫、親指姫、お化け姫非常に面
白い喩えですね。これが当たり前になってきているところに心の貧しさが見
えてくるのではないでしょうか?
 

(本書より引用)
----------------------------------
教育の最終責任者は自分である。その次が親である。教師は三番目である。
自分と親たちはその義務を果たしてきたか。この問題は声を荒げて、誰かを
詰問すれば済むことではない。静かに、継続的に、客観的に自問し、自分の
美学と哲学で自分を教育し直すほかないのである。(p3)


教育はすべて強制に始まる。犬をイヌと呼ばせることも、ばらをバラと呼ば
せることも強制だ。

強制に始まった教育は次第に自然に二つの道を辿る。いやになった止める人
と、だんだん面白くなる人とである。奉仕活動も全く同様である。少しやっ
てみて人のために働くようなアホらしいことはごめんだ、と思えば、いつで
も止めるチャンスはあるのである。人のために尽くすということはなかなか
気持ちがいいものだな、と思えば続ければいいのである。
 教育の場でかなり重要なのは、奉仕活動の場合でも、他の場合でも、いさ
さかの厳しさを体験することである。食物でも苦みや硬さなどという一見避
けたいような要素が人の健康に必要だという事になっている。(P132)


眠り姫
電車に乗るやいなや眠りこけている娘
親指姫
電車の乗るや否やケータイを取り出して、何やらキイを押している娘たちで
ある
お化け姫
電車の中で化粧をする女である。(着替えや化粧をする現場は、他人に見え
ない場所でするのが普通の感覚であった。それはまともな美学とも関係があ
る)

ケータイは通信手段としては画期的なものだが、使い方を誤ると亡国的な結
果を生むだろう。そもそも若いときには、もっともっと時間を惜しまなけれ
ばならないのである。もちろんぼんやりと心を休ませる時間も大切だ。しか
し貴重な青春も長くはなく、人の生涯に有効に使える持ち時間も雑事に追わ
れて長くはない。若いときには、まず寸暇を惜しんで、自分を複雑な人間に
教育する必要があるだろう。十分に読書をして専門的な知識を身につけ、で
きるだけ多くの人に出会って、現世にはどれだけ変わった見方があるかを体
験しなければならない。
 ケータイでメールのやり取りをすることが何か大変得難いことのように言
う人がこの頃増えた。それが友情の証だとか、人間と触れ合う機会だとか言
う。
   中略

ケータイでメールのやり取りをしたり、パソコンでチャットをしたりするこ
とは、多分はっきり言うと時間潰しなのである。多くの人が言っているよう
に電話というものは、お互いに同じ場を共有していない友人と同じ場所にい
てそこで事件に遭えば、友人と私はお互いのために何をするかがはっきりす
る。逃げ出すことも、庇うことも、相手を助け出すことも、夢中でするだろ
う。しかしケータイでメールし合っていても、決して同じ運命を共有してい
ない。人生は少しも濃厚にならない。
 ニクマレグチを叩けば、電車の中でメールばかりしていて、少しも活字を
読まないような男女にろくな未来はないであろう。単純な理由だ。読む人は
それだけ勉強しており、ケータイしか興味ない人はそれだけ怠けているから
である。平等という観念は誰でも同じ状態が与えられることではない。努力
した人にはそれだけの報いをすることであり、怠けている人はそれだけ報わ
れないことが平等なのである。(p214-216)

国家が許しても、個人が自分に許せないことがたくさんあっても当然だ。法
律は最高の道徳という見方もあるが、最低の徳に過ぎないとも言える。法に
引っかからなくてもその人が人間としてすべきでないことはたくさんあるは
ずだ。(p220-221)