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コンピュータに育てられた子どもたち
« 投稿日:: 11月 14, 2012, 12:20:54 pm »
書名:コンピュータに育てられた子どもたち
   教育現場におけるコンピュータの脅威を探る
著者:アリソン・アームストロング
   チャールズ・ケースメント
訳者:瀬尾なおみ
出版社:七賢出版
発行年月日:2000/10/24
価格:1800円+税

コンピュータリテラシー、デジタルデバイド等の言葉はいろいろ使われて
いるが、これほど定義の良くわからない言葉もないのではまた今まできっ
ちりと定義づけが出来た例を見たことがない。なんとなく曖昧でそれぞれ
使う立場の人たちの各々の解釈で使われているように思う。この本は教育
現場におけるコンピュータの使い方使われ方の歴史を振り返りながら、コ
ンピュータが教育現場に入ってきたことによる影響を全般的にとらえてい
る。結論から言うとコンピュータを入れたことによって教育効果が上がっ
たという報告はほとんど無いということ。また影響の度合いはこれから長
期にわたらないと何とも言えないということ。非常に良くまとめられてい
る。コンピュータ導入に賛成の人も反対の人も是非、じっくりと読んで素
直に考えてもらいたい本です。

 著者の結論としては幼い子どもたちにコンピュータを使わせることより
読み書きを生身の教師、親を通じて行うことの大切さを説いている。本を
一つとっても手に取っただけでどれだけの分量がある。目次を見ることで
内容もある程度推測出来る。ページをめくることで先読みも、後戻りも出
来る。また一冊の本としての統一感がある。長い歴史を経てある意味では
完成された表現形式、方法がきっちりと詰め込まれている。

 それに比べてコンピュータがはき出すハイパーリンクはそれなりの便利
さ容易さもあるが、次々と現れる事象に目を奪われて、最初の目的を逸脱
して支離滅裂になる恐れがある。またそれらはそれぞれ信用出来る資料だ
としても断片的な情報・知識の集積にしかならない。ちっちりと読み書き
能力をもった人ならば、それなりにまとめる、編集することができるが、
そんな読み書き能力を持っていないもにとっては知恵が育つどころか、そ
の発達が阻害される。

「読書は充実した人間をつくり、会話は機転の利く人間をつくり、書くこ
とは正確な人間をつくる。」フランシスコ・ベーコン
にあるような人間をつくることはコンピュータには出来ない。コンピュー
タの導入によって教師、子どもたちはただ「気ぜわしく」なるだけで、じ
っくりと物事を考える機会もない。そうでなくてもテレビが毎日「気ぜわ
しく」情報をはき出してくる。ある調査によると18歳までに2万2千時
間テレビを見ることになるとか、そのうち五分の一はCM。
 動画音声は非常に情報量が多くって、「百聞は一見にしかず」と言われ
るように詳細に対象物を見せてくれる。だが子どもたちにとって本当に興
味ある対象物か?大抵は湯水のように投げ出される動画音声情報を見てい
て見ない状態。結局見ていないことで自己防衛をしている。その上コンピ
ュータからの情報を増やすことが本当に子どもたちのことを考えていると
言えるのだろうか?

子どもたちに必要なことは、自然との関わり、人との関わりをもっと増や
すことでは?
 最近、すぐ「切れる」「頭にくる」ということで暴力に訴える場面が多
々あるが、暴力に訴えることは実は一番創造性独創性のないことである。
これからの未来を背負っていく子どもたちに少しでも創造性、独創性を求
めるならば

クラスの人数を今の半分以下にして少人数クラスの実現
コンピュータのために取られてしまう芸術関連科目の充実
自然とのふれあい。特にピアノ・バレー・演劇など。この本の中にある例
であるが、4歳の時にすぐであればマシュマロ1個、ある時間待てば2個
と言ったとき、我慢してマシュマロ2個もらった子どもは将来も自分の情
緒をコントロールすることが出来る。マシュマロ1個もらった子どもは将
来もやっぱり我慢が出来なかったとか。子どもの教育で非常に重要なこと
の一つに自分の情緒をコントロール出来るように育てることではないでし
ょうか?
 この情緒をコントロールすることが出来るようになると学習に対する意
欲も、いやなことでも我慢が出来る。目的に向かって自分を律することが
できるのではないでしょうか?
 それを育ててくれるのは今では受験科目になっていない(取り残された)
音楽、美術、演劇等の芸術関連科目では。これらが豊かな教養を育ててく
れるということをしっかり認識し直さないといけないのではないかと思い
ます。

コンピュータ=脳に良く譬えられますが、これは大いなる錯覚といことを
認識しておかないといけないと思います。全く柔軟性のないコンピュータ
と、脳を比較すること自体が間違っていると思います。五感を通じて生き
ている情報を感じている脳と、単なるインプット→アウトプットの単細胞
とを比較することこそ笑止千万では?

コンピュータの導入する前にやるべき事はいっぱいあるように思います。
コンピュータは導入時だけではなく、その後使える状態にしておくための
メンテナンス、ソフトウェアのバージョンアップ、ネットワークの更新、
急速な技術進歩に追いつくためのコンピュータ教育。2,3年で陳腐化す
るコンピュータの廃棄、新設。それらの予算の確保それが教師の仕事とし
て新たに出てきています。この努力に対して教育効果が未知数。過去20
年程の研究成果を踏まえても効果がプラスという例がほとんど無い。
 これからは違うかも知れないけれど、未知数のものに全国一律で進めて
行くことの危険性を十分認識しておく必要がある。

 教育にハイテクは不要、ローテクで十分と言えるのでは。少なくとも、
幼児、小学生、中学生にあわてて使わせる必要はないのではないかと思う。
便利で、スピーディで、正確であることがいつも有意義で価値があるとは
限らない。コンピュータの操作なんてまともな理解力のある人ならば極短
時間で十分習得出来るではないでしょうか?
 現在の会社、職場に進出しているコンピュータにしてもそんな時間をか
けずに仕事で必要に駆られた人々によって使いこなせるようになってきて
いる。したがって早期教育の必要は全くないと思う。
 それよりは幼児期は幼児期に必要もの、小学生は小学生で必要なもの、
その時でないと経験出来ないものをしっかりやらせることが王道ではない
かと思う。間違ってもコンピュータの操作がその必要なものとは思えない。

(本書より引用)
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なぜ子どもたちは幼いうちからコンピュータに向き合う必要があるのか?
コンピュータやソフトウェアはこどもの教育に欠かせないものだろうか?
コンピュータ教育によって子どもたちがえるものは何か?
そして失うおそれがあるものは?

政治家たちは、テクノロジー面で学校間格差の解消に躍起になっているが
ここで少し立ち止まって熟慮して欲しいものだ。インターネットにアクセ
スする機会の子どもより、芸術に触れる機会を奪われている子どもの方が
多くのものを失っている。コンピュータの操作など、一応道理のわかる大
人なら大して時間をかけなくても習得出来る。子どもの時代にその技能を
習得しなかったからといってそう不利はない。しかし幼い時期に芸術に触
れることがなければ、長い人生において失うものは大きい。
リコーダーの演奏、詩の創作、ダンスのステップ、演技などは、若いとき
の方がずっと楽に身に付く・・・・この活動が学校のカリキュラムになけ
れば才能を開花させる機会は二度と巡ってこないかもしれない。さらに重
要なのは創造的な活動を通して得られる自制心、集中力、情緒をコントロ
ールする力、そして純粋な喜びが、生涯にわたって人生を豊かにしてくれ
るということだ。
(p279)


家に一冊の本もない子ども、マザーグースのリズムの面白さや子守歌の甘
い安らぎを知らず。「おやすみなさいおつきさま」のお話の楽しさや「雪
の女王」に夢中になったこともない子どもたちに、機会は何をしてやれる
のだろうか?テレタビーズやディズニーキャラクターの洪水から生まれる
美意識とは?教室の話し合いに耳を傾けられない子ども。簡単な計算に集
中出来ない子どもに機会が何をしてやれるだろうか?
 今、新しく登場した機械の前に座らさておけば、その子は間違いなく、
一人前の読書家になり、達者な書き手になるとでも?今また新しい電子の
声を聞かせればその子はうまくはなせるようになるのだろうか?とてもそ
うは思えない。

これまで見てきたように、現代の親たちは忙しく、一世代前と比べても、
子どもと過ごす時間が週に10時間は減っている。だっこの回数は減り、
食事は手抜きになり、親は家にいない。この寂しさをコンピュータと過ご
すで償えるのだろうか?テレビとビデオとポップ・ミュージック漬けの幼
年時代を過ごした子どもたちに、また新しいタイプの騒がしい機械など間
違っても必要ない。
 そういう子どもたちは、コンピュータに触れたからといって、魔法のよ
うに文字に親しむようにならないし、さらに言えば社会性も身に付かない
。それより、一クラスあたりの生徒数を減らせるならば、教師は子どもの
一人ひとりを理解して、子どもと人間関係を築く時間的なゆとりを確保で
き、教師にとっても有効な策となる。

 ニコラス・ネグロポンテは将来は「物理的な場所に関係なく、サイバー
スペースで近所づきあいをするようになり、そこでは時間の役割さえ今と
は違ったものになる」と断言している。しかし親からもほとんどかまって
もらえず、学校で生徒数の多いクラスで見過ごされがちな子どもたちにと
って、それは追い打ちをかけるような「デジタル空間のご近所」での生活
はお粗末な代替品としか感じられないだろう。子どもたちには本物の時間
と場所で、本物の人々に囲まれた生活をさせたい。安全に守られている感
覚を得るために赤ん坊が親を必要とするように、子どもたちには本物の社
会が与えられて、そこで学ぶべきなのである。例えばモスクワやマドリッ
ドの小学生とオンラインで繋がっても、それでクラスメートと仲良くでき
るわけではない。直接的な体験の代替品はないのだ。
(p306-307)

真のコンピュータリテラシーとは子ども(親や教師を含めて)最新技術の
利用に適した場面だけではなく、使うべきでない場面も知っていることを
意味するはずだ。(p310)


「テクノロジーと帝国」の中でジョージ・グラントは「学校のカリキュラ
ムの内容はその社会の支配階級が必要とみなす知識の種類で決まる」とい
っている。今日の支配階級の最大の権力者はビジネスエリートであり、そ
の企業の価値観が学校教育に色濃く影を落としている。企業のトップたち
は日頃独創性や高度の思考技術の必要性に口先では賛意しめしても、本音
のところでは学校教育の目標に対して極めて現実的な欲求を持っている。
ある教育家はこう語る「彼らは、批判的思考ができ、問題解決力の高い人
材が欲しいと思います。・・・・・しかし実際ビジネスリーダーたちと話
していると、彼らが本当に欲しがっているのは従順な働きバチのようなワ
ーカーだとわかって不愉快な思いをすることがよくあります」(p316)


芸術と無縁に育てられた子どもは例外なく心が貧しい。だから若い人は誰
でも芸術を学ぶチャンスを与えられるべきで、それは芸術家になるためで
はなく教養を身につけるためなのだ。・・・チャールズ・フラワー


情報狂(インフォマニア)になると、知恵が育つどころか、その発達は阻
害される。・・・マイケル・ハイム


読む能力は子どもの学校生活の中で独自の重要さをもっているので、それ
を習得する体験は往々にしてその子の学業の運命を決定してしまう。
・・・ブルーノ・ペテルハイム、カレン・ゼラン

コンピュータの導入が必ず進歩を意味するという思いこみには落とし穴が
ある。便利で、スピーディで、正確であることがいつも有意義で価値があ
るとは限らない。
・・・D・ラモント・ジョンソン、クレポーン・マダックス

教育の大原則として次のことを強調しておく。何かを教えているとき、生
徒に身体があることを忘れてしまうと、とたんにうまくいかなくなる。
・・・アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド


子どもたちを早くからコンピュータ人触れさせないと、コンピュータ時代に
乗り遅れてしまう。そう主張する人を前にして、ひるんではいけない。そう
いう人は決まって、あなたに何かを売りつけようとしているのだ。
・・・アーロン・ファルベル