投稿者 スレッド: 大田南畝(蜀山人)  (参照数 394 回)

admin

  • Administrator
  • Hero Member
  • *****
  • 投稿: 58817
    • プロフィールを見る
大田南畝(蜀山人)
« 投稿日:: 4月 13, 2018, 12:30:08 pm »
大田南畝(蜀山人)

「生きすぎて 七十五年食ひつぶし かぎり知られぬ天地の恩」

「永代と 言われし橋が落ちにけり 今日の祭礼明日の葬礼」

大田南畝が、文政6年4月6日(1823年。 195年前の4月6日)、 74歳で死去しました。辞世の歌は、

今までは人のことだと思ふたに
俺が死ぬとはこいつはたまらん

近世初頭まで連歌師や俳人の余技に過ぎなかった狂歌は、江戸時代中期以降川柳と並んで隆盛を迎えます。
大田南畝〈なんぽ〉(蜀山人〈しょくさんじん〉、また四方赤良〈よものあから〉、杏花園〈きょうかえん〉ともいう)は、寛延2年(1749)に江戸で御家人の家に生まれ、17歳から幕府に仕えました。少年時代より学問に精進し、とりわけ漢学を諸家について学び、青年時代にはその漢詩文によって知られる存在となります。一方、市井にあって優れた狂歌、漢詩文を作り、戯作者としても活躍しました。文政6年(1823)に75歳でその生涯を閉じました。

狂歌の作者としては、天明年間(1781‐89)頃からその名声は一段と高く、『徳和歌後万載集』をはじめ、多くの著編書を刊行しました。この屏風にある狂歌六首中の第五「やよ達磨……」を除く五首は、晩年に版行された『蜀山人自筆百組狂歌』に集録されています。

この屏風の泉岳寺伝来の歴史は定かではありませんが、蜀山人の自筆の作品としてその筆蹟は優れ、また保存状態も良好です。しかも彼の代表的狂歌・漢詩が記されている佳品といえます。

港区の文化財保護:指定文化財 解説
https://www.lib.city.minato.tokyo.jp/muse/j/bunkazai/bunkazai.cgi?id=5693