投稿者 スレッド: わが屍は野に捨てよ 一遍遊行(いっぺんゆうぎょう)  (参照数 204 回)

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わが屍は野に捨てよ 一遍遊行(いっぺんゆうぎょう)
« 投稿日:: 3月 01, 2013, 06:47:51 pm »
書名:わが屍は野に捨てよ
   一遍遊行(いっぺんゆうぎょう)
著者:佐江 衆一
発行所:新潮社
発行年月日:2002/8/25
ページ:224頁
定価:1500円+ 税

藤沢に遊行寺(時宗)がある。放浪の人一遍上人であったので、一処に留まるこ
とをよしとしなかった。寺も住居も持たず遊行に日々をおくる。「南無阿弥陀仏
」「なみあみだぶつ」を唱えながら念仏札を配った。法然、親鸞から少し遅れて
出現した聖人。同時代に日蓮がいる。一遍上人の歩みを思想変遷ととも描いてい
る。なかなかの力作だと思う。末法の時代に出現した聖人たちが同じように考え
行動していくところがまた不思議である。

政治の乱れ、飢饉、災害、元寇と世の乱れに庶民は一遍上人の「踊り念仏」に熱
中していく、そした念仏往生。法然から流れている他力本願をより進めて、念仏
(なみあみだぶつ)を唱える続けると、人が念仏を唱えているのではなく、念仏
が念仏を唱えている。人はどこかに行ってしまう。他力の神髄をそこに求めた遊
行の人。一遍の壮絶な人生を描いている。

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没後の事は、我が門弟におきては葬礼の儀式をととのふべからず。野に捨ててけ
だものにほどこすべし(一遍聖絵より) 教信沙弥の生活の汗にまみれながらの
純粋な信仰と、その死を越えた境地の入寂は、「捨ててこそ」の一遍上人にとっ
ても理想のものであっただろう。

念仏の機に三品あり、上根は、妻子を帯し家にありながら、著せずして往生す。
中根は、妻子をすつるといへども、住処と衣食とを帯して、著せずして往生す。
下根は、万事を捨離して往生す。我等は下根のものなれば、いっさいを捨ずは定
て臨終に諸事に著して往生を損ずべきものなり。よくよく心に思量すべし。
(本書より)
現代語訳:念仏をする衆生には三段階がある。上の段階のものは、妻子を持ち家
に住みながら執着することなく往生を遂げる。中等の者は、妻子を捨てる(出家
)が、衣食住を離れず執着もしないで往生する。下等の者は、一切を捨てて往生
する。私などは下等の根機であるから、一切を捨てないと、きっと臨終の時にな
って、万事に執着して、往生をしそこなうはずである。よくよく心におもいめぐ
らせねばならない。
(一遍上人全集 播州法語集 春秋社より)

一遍上人は、自分を下根の者という。それは、再出家の根底、遊行の根底に流れ
る一つの澪(みお)だろう。寺も住居も食の当ても持たず、遊行に日々をおくる
聖は、いつの頃から執着を離れ、澄んだ機根となったのだろうか?
叩きのめすべきは私の下根。いつまで続けるのか貪瞋痴