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本はどのようにして消えてゆくのか
« 投稿日:: 1月 30, 2014, 06:36:25 pm »
書名:本はどのようにして消えてゆくのか
著者:津野海太郎
発行所:晶文社
発行年月日:1996/02/10
ページ:218頁
定価:1995円

 最近「本はどのようにして消えてゆくのか」(津野海太郎著 晶文社)を読みました。紙と活字の本はなくなるのか?みなさんどうおもいますか?この本は小学校時代、ガリ版による新聞を発行、出版社で単行本づくり、雑誌、ミニコミ誌、DTP新聞などの編集にたずさってきた著者が今までの印刷技術と本作りの歴史を追いながら自ら経験してきたワープロ、MACコンピュータとの出会い、DTP、パソコン通信との関わり、インターネット、ホームページ、HTMLなどを通して今後のトレンドしての本というものを考察しています。体験に共有する部分も多い気がしました。また今のマルチメディアの進展に同じ様なことを感じている人がいたという気にもさせられた。
電子メールによるコミュニケーションにも何かしっくりしないところ、引っかかるところを感じていた私にとってなるほどなるほどいちいちうなずく場面もしばしば。
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 大手パソコン通信の会議室(フォーラム)で不特定多数の人たちを相手に心ゆくまで対話的にふるまえたという経験がない。もちろんおしゃべりとか簡単な情報の交換ぐらいのことはできる。でもそんな程度で対話的というのはおこがましかろう。そう思ってちょっと本気で関わろうとすると、必ず失敗する、なんというか、しつこくなりすぎてしまうのである。書くことは、多かれ少なかれ、私の考えはそれ(たとえば相手の観点)とは違う、と切り分けていく面をもつ。つまり書くことは必ずいくばくかの切断的(批判的、批評的)な見解を含んでしまう。私もそうだし、顔の見えない相手の側もそう。その種の切断に、いちいち過剰に傷ついていては話がさきに進まない。と頭では思っていてもどうしても多少は傷ついてしまう。そうなると、お返しに自分が負った傷以上のものを相手に負わせたくなる。特に意識せずとも、そうしてしまっている。
 活字メディアであれば、批判するものと批判されるものとの間には時間的、空間的な距離がある。ちょっときついことを書いても、また書かれてもその距離の中で、自分が負った傷、相手に負わせた傷、このさきどう処理してゆくかをゆっくり考えることができる、その意味で活字メディアは切断につよい。
 (本書71~72ページより引用)
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 これは非常に本質的な事かもしれないという気がしました。みなさんのネットワークでの経験の中で、こんな体験した方もいるのではないでしょうか?
 瞬間的に全世界を駆けめぐる電子ネットワークの良さもありますが、間の大切さ、読み手を意識した書き方も必要ではないかと思います。フォーラム、メーリングリストなどである特定の個人だけを意識したような書き方、独りよがりの書き方、その他大勢の読み手を意識しない書き方などちょっと配慮すればもう少し楽しい電子空間が広がってくるのではないでしょうか?


本はどのように消えてゆくのか
http://attic.neophilia.co.jp/aozora/htmlban/honkie.html